もし私が日本で日本人と結婚をしていたら、おそらくここまで感じなかったであろう、この「認めてもらう」ことの重さ。そしてそれを感じられることを、ありがたく感じるようになった。
私の彼は、カトリックであり、私たちは10月にカトリック教会にて挙式をする。つまりは、priest(司祭)のもと、カトリック教会に私たちが夫婦となることのお許しをもらう。そこには目撃者の同席も必要になる。
そして、実際のカトリックでの挙式の前に必要となる、Pre-Cana(プリケイナ)も今週末受けてきた。これはカトリック教会における結婚について事前に行われる2日間におよぶ勉強会のようなもので、カトリック教会で結婚式を挙げる場合は必ず受けなくてはいけない。要は、「結婚する覚悟はできていますね?」といった感じ。
私はカトリック教徒ではないので、カトリック教会では、私たちの結婚は interfaith(異宗教間)の結婚として扱われる。私の場合は agnostic(無神論者)であり、多教徒ではないので、ややこしくはない。私さえカトリック教会で式を挙げることに同意していれば、教会側は受け入れてくれる。例えば Pre-Cana においても、お祈りの場面は多くあったが、私にはそれは要求されなかった。それでも、結婚をするということについての基本的な考えはカトリックでない私にも響く部分は多く、持ち帰る内容はたくさんあった。
一方で、彼はこのPre-Canaに私が同行することに何度も何度もお礼を言っていた。貴重な時間をつかうことを申し訳ないとさえ言っていた。そもそも、教会で式を挙げるという決断自体を、彼は心から感謝してくれている。「自分の信じる宗教で結婚をしてくれる」ということにありがたさを感じてくれているのだ。それは彼の家族もしかり。
特にこだわりはない私にとって、まったく難しい決断ではなかったのだが、それでもありがたがられる分、もう少しこれについて考えるきっかけになる。
司祭のもと結婚を「認めてもらう」式をすること − そのことの意味。
アメリカはクリスチャンの国だが、大部分はプロテスタント(その中でも様々な派がある)である。そして信心の度合いは人によって異なり、特に東部のニューヨークは、あえて宗教度の低い式を求める人も多い。
しかしイタリア系の母親を持つ彼はカトリックであり、ミサに通うわけではないものの、結婚は当然教会で、といった気持ちがあったようだ。聖書の教育もしっかり受けているし、式で司祭に読み上げてもらう文言の選択も、やはり彼なりに考えはあるよう。そういった部分は当然私も尊重するし、そして大きな意味を持つことに、要は「よそ者」である私が関わることを受け入れてくれていることに、かえって私はありがたさとともに申し訳なさに似た感覚も持つようになった。
私には今までの人生で関わりのなかったカトリックの世界で、結婚だけを「認めてもらう」のは少し調子がよ過ぎるようにも感じるのだ。しかし、それを受け入れてもらえることを、彼や彼の家族、そしてPre-Canaを通して感じ、それが感謝の気持ちに変化した。
彼は、私にプロポーズする際も、カトリックには直接関係ないが、アメリカ式の伝統を重んじた。私にプロポーズをする前に、私の両親に許しを得たのだ。それが、アメリカの古くからのやり方だから、と。プロポーズを受けた後に、家族はみんな先に知っていたことを知り、驚いた。ルールに過ぎないが、やはり結婚は二人だけのものではなく、周りの許しや認めてもらうということが重要だと考える彼なりの行動だと思う。
誰の信心でも誰にありがたがれるわけでもなく、教会で式を挙げるケースが多い日本の結婚式を見てきた。それらは、本人達が望む場所ややり方で、多くの人が祝福する中で式を挙げることが「認めてもらう」ことにつながっているからだと思う。しかし、やはり宗教や教会というのは歴史や伝統、そして多くのしきたりがある場所であり、そこで本来の形で「認めてもらう」ことを重んじる人たちにとっては、全く次元の異なる意味を持つ。
それを心から望む彼と、そしてそれを喜んでいる彼の家族の同席の中、特定の権威のもと「認めてもらう」式を挙げられることは、やはりありがたがれることではなく、ありがたいことだと感じる。