THE LITTLE WHIM

「毛」の話 。ニューヨーク在住の私がやらなくなった4つのこと

少し前にゴミについて書いたばかりなのに、今度は「毛」がテーマです。(色気がなくってごめんなさい。)

どうして今回、毛について書きたいかというと、少し前にツイッターでこんなことをつぶやいた9月の終わりから、ずっと考えてきたことがあるから。

ここから、「やらなくなったこと」をTHE LITTLE WHIM で書いてみようかなぁってネタを練っていたところ、気づけば毛関連の事柄が多かった。

考えをまとめている中で当然気になったのは、「どうしてやらなくなったのか」という経緯や理由。つぶやきの通り、東京からニューヨークに来たからなのか。それともサステナビリティが気になるようになったからなのか、フェミニズムなのか、節約や不精からなのか。はたまたそのどれでもない全く別の理由なのか。そんなことも踏まえながら、今回は私が毛まわりでやらなくなったことをまとめてみる。

毛はパーソナルなもの。だからこそ、あえて話したい。

髪を毎日洗わなくなった

東京にいた頃は、寝込んだ時以外は、例え夜中まで遊んで帰ってきても朝にシャワーを浴びて洗髪しないと出かけられない、と思っていた。ところが、6年と少し前にニューヨークに引っ越してきてからというもの、いつからか髪は毎日洗うものではなくなった。ペースに波はあるし夏の方が回数は多いと思うけれど、ざっくり言って数日に一回。

事実的根拠のある理由は、(特に冬は)ニューヨークは東京より乾燥しているから。洗い過ぎてしまうと頭皮がムズムズするので2日目や3日目くらいがちょうどいい。そしてアメリカには毎日シャンプーをしない人が多いのも、「毎日洗わない方が普通」みたいな感覚に自然とシフトしていった理由だと思う。

もう一つはサステナビリティかもしれない。髪を洗う回数が減れば、それだけ大切な資源である水を無駄にせず済む。苦労なくできるエコなことな上に、節約になると思うとなんだか嬉しい

今思えば、東京にいた頃も、毎日は洗わなくてもよかったんじゃないかな。お風呂場に入るとまるで当たり前のこととしてシャワーを頭から浴びていただけな気がする。あとはなんとなく、2日目だと知られたら不潔と思われそうかなっていうのも気持ちの中にあったような。

洗髪のような習慣になっていることはあまり深く考えず繰り返すけれど、実は必要以上なことをしてしまっている場合もあるよね。

美容院にめったに行かなくなった

続いても髪がらみ。美容院に行って髪を切る頻度ががくんと落ちた

私は1年に1度は一時帰国をするので、その際に以前からお世話になっていた美容師さんに会いに行き切ってもらい、その半年後くらいにどうしてもボサボサになったらニューヨークで切ってもらう。こんな感じで年に合計2回がここ数年のサイクルになっている。

東京の美容師さんは母も切ってもらっていておしゃべりも弾むので年に1度の楽しみ。そして彼女に切ってもらうと半年後までどうにかなってくれるのでとてもありがたい。それ以外は、どちらかといえば、美容院に行くのは年々ものすごくめんどうくさいことと感じるようになった

ニューヨークは総じて、美容院に行くとお金が掛かるっていうのもある。日本のようにシャンプーやスタイリングも含めた一律の設定ではなく、それぞれ別にチャージされる場合が多い。おまけにチップが別で発生するので、東京で同じようなサービスの美容院に行くのに比べてニューヨークのそれは高くつく可能性が高い。

東京に住んでいた頃は、2ヶ月以上美容院に行かないと「私、オワってる」くらいに思っていた。毎日ヘアアイロンでそれなりにセットしていたし、スタイリング剤も持っていた。今はそのどちらも日常生活の中に登場しない。周りが髪を巻いたりセットしたりしてきれいにしているから、私もしなくちゃいけないと無意識の内に感じていたと思うし、そのためにはこまめなカットも必要だった。事実、東京は歩いていても美容院の数がすごく多いように感じる。

ニューヨークでは、もちろんきれいにしている人もいるけれど、伸ばしっぱなし・起きてそのままっぽい人を多く見る。ファッション業界であっても、学校や会社では、美容院には行かず自分で髪を切っていたり、濡れた髪のまま登校・出勤する人もいた。日本の雑誌で昔は「外国人風 無造作ヘア」みたいなのってあった気がするけれど(今もあるのかな?)、あれ、ニューヨークではガチで無造作なことが多い。

私は以前はうだうだのロングヘアで、ここ数年はうだうだのミディアムヘア。

朝、ブラシでとかし、ボサボサなら結んでしまう。ヘアアイロンで火傷していた頃を思い出すと、今はなんて楽なんだろう、と思う。ゆるふわとかではない、ただ単にそのまま。たまにデートや用事でスタイリングをする時は、ドキドキする。

美容院が息抜きだったり楽しみな人もいると思うけれど、私はできるだけ長い間切らないでいいように処理してもらうことが優先だし、まるで定期検診に行くくらいの感覚になってしまったなぁ。

体の毛を剃らなくなった

次は体毛。これは髪関連に比べると比較的最近やらなくなったこと。この2年くらいの間で、段階的ではあったけれど体の毛を剃らなくなった

これも、東京にいた頃の私には考えられなかったはず。ちょっとでも放置してしまって「チクチク」を感じると恥ずかしくて、袖を引っ張って腕を隠していた。パンツやタイツに頼っていた。(私は実は脇の毛が体質的にほぼないので、そこは元々剃っていなかった。)

最初に剃るのをやめたのは腕で、「チクチク期」を過ぎた頃には、毛の存在が全く気にならなくなった。そこにあるのが当たり前になったというのが正しいかな。

毛の処理をしなくなってから、帰るたびに東京での雑誌や交通機関に溢れる永久脱毛の広告の多さに気づく。友人にも、永久脱毛をしている人は結構いる気がする。全部なくしちゃったら楽なんだろうけれど、お金や肌への負担を掛けなくとも同じくらい楽なのは、「気にしない」なんじゃないかな、と今の私は思っている。

ニューヨークでは、私の周りには日常的に体の毛の処理をしていない女性は東京に比べてすごく多い。別に恥ずかしいことでもないんじゃないかな。(THE LITTLE WHIM 調べ)だって、個人差はあるとはいえ、体毛は生えているのが普通なんだもの。取り除きたかったらそうすればいいけれど、絶対しなくてはいけないことではない、と思うようになった。そして何より、正直、めんどうくさいもん。

更にもう少しディープな、フェミニズムが起源となっていると思われる動きもある。アメリカではここ1、2年、あえて体毛(特に脇)を処理しないことをショウケースする女性が増えている。メディアや広告でビジュアルを通してそれぞれのメッセージを伝えているのもよく目にする。

上: Nike Women (image via Dazed Digital)
下: ニューヨークのカミソリブランド Billie (image via Glamour)

こういった主張は大きな反響を呼び、ポジティブ・ネガティブな様々な意見が出た。私は、The Guardian の記事に書いてある考えに賛成する。

The new feminist armpit hair revolution: half-statement, half-ornament (The Guardian)

ここにある、70年代のフェミニズムは「女性らしいことを押し付けられることへの拒絶とそれの排除」を求める運動だったのに対して、今は「選択の自由」と「ジャッジへの嫌い」が背景にあるということ。それが、体毛を処理しないことは処理することと同じく選択肢であるという考えを後押ししているのかもしれない。

剃るも剃らないも自由。ただ、「剃らなくちゃいけない」という風潮が不必要っていう考えが私は好きだなぁ。

まつげに執着しなくなった

最後は顔の毛から、まつげ。

私のまつげは特に長くも短くも、多くも少なくもないと思っている。マスカラは使うけれど、ボリュームや長さを誇張するのではなく自然に仕上げるのが好きだし、塗らない日も多い。

アメリカに来てからは、まつげへのこだわりや執着はますます減っていった人種が多様なニューヨークでは、当然まつげも多様。私がアジア系の人種として平均的と思っているまつげは、残念ながら他の人種に比べたらかなり総合点は低いのは認めざるを得ない。例えばイタリアとギリシャの血を引く私の夫は、まつげが長く多い。扇型に広がっているさまを隣から見ているとうらやましくなるが、「邪魔だし、たまに目に入ると痛いし、いいことなんてないよ」と彼は言う。その悩みならもらってもいいと思ったこともある。

でもよく考えたら、彼のまつげが私の目元にあったら違和感ハンパないよね。彼の顔立ちがあってのあのまつげだし、おそらく彼の青い瞳を守る役割もしている。そうだ、顔はバランスだ、と思い出す。

更に、個人的にまつげエクステンションはどうも不自然に見えると思っていて、したことがない。2015年に結婚式を挙げた時も、私はまつげエクステンションもつけまつげもしなかった。まつげに違和感のあるボリュームと長さが加わり、顔に影を作り、まぶたがとろーんとするあの感じは、一生の思い出に残る大事な日の私の顔ではないと思ったから。

溢れる人種と同じように多様なまつげがある街で過ごしているのもあり、(文字通り)取って付けたようなまつげは、美しいとは思わない。

顔の一部であるまつげを際立たせるより、自然な範囲で楽しむのが一番バランスがいいんじゃないかな。


ここに書いたことは、あくまで私が思うこと。何が正しいとか間違っているということではないのをご理解ください。

そして冒頭にも書いたように、きっかけや理由は、ニューヨークにいることだったりサステナビリティやフェミニズムだったり、色々だと思う。ただ全てにおいて共通していえるのは、以前は「やって当たり前」だったりむしろ「しなくちゃいけない」くらいに気持ちのどこかや日々の生活の中で感じていたことが、実はそうではないと気づいたということ。

毛はすごくパーソナルなもの。だからこそ、やるかやらないか、それは自由であって、選択肢があるべきなんだよね、と思う。

あわせて読みたい

東京とニューヨークの地下鉄で感じる3つの違い
ファンデーションを通して感じるアメリカのマーケットが持つ複雑さ
Scroll to top