私の生き方が、食のみならずライフスタイルとしてヴィーガンの状態になって、1年と少しが経過する。徐々に移行していったのを考えると、ヴィーガニズムを生活に取り入れ始めてからは2年以上になる。
夫は私とほぼ同じ選択をし、近くには似た考え方の友人は少しだがいる。インターネット上でも心の寄り添いを感じられる仲間ができた。ほかにも、ヴィーガニズムを取り入れていなくても、私の周りはみな理解があり尊重してくれる。ニューヨークの街自体も、選択肢は多く、ヴィーガンでいることに息苦しくなるようなことはない。アメリカ全体では、2014年から2018年の間に6倍に増え、そしてプラントベース食への注目は集まっていると言われている。
とはいえ、だ。ヴィーガンはあくまでものすんごく小さなマイノリティだ。6倍の伸びは大きいが、具体的な数字は実は、1%から6%になったという極めて数値が低い範囲での増加。
私は幸い、ヴィーガンであることで他から攻撃的なメッセージなどを受けた機会は極めて少ない。しかし、実際に世の中では、ヴィーガンは嫌われ者になることも多い。相互理解やお互いを尊重するコミュニケーションがうまくいかない出来事が起きる。ヴィーガンコミュニティ内に存在する問題から起因する場合もある。
その中で、非常に興味深い記事を見つけた。
“The Hidden Biases That Drive Anti-Vegan Hatred” (BBC Future)
https://www.bbc.com/future/article/20200203-the-hidden-biases-that-drive-anti-vegan-hatred
BBC Future で2020年2月に掲載された記事で、タイトルは、日本語に訳すと「アンチヴィーガンが持つ憎悪を駆り立てる隠れたバイアス」といった感じだろうか。
Far from being driven by factors within our conscious awareness, the widespread resentment we have for vegans is down to deep-seated psychological biases.
ヴィーガンに対して広がる憤りは、私たちの意識的認識の要因に駆り立てられたものではなく、根深い心理的バイアスにまで及んでいる。
“The Hidden Biases That Drive Anti-Vegan Hatred”
(BBC Future)
THE LITTLE WHIM 訳
認知的不協和とは
そもそも、多くの人は動物が好きだろう。犬や猫などと暮らしていたり、ソーシャルメディアで動物の愛くるしい画像や映像を観て心がまろやかになる。特別好きでなくても、あえて動物を苦しめたい人はなかなかいない。しかし、ヴィーガンやベジタリアンなどではなく肉などの動物性食品を摂り、動物性素材のものや動物実験がされたものが生活にある人は圧倒的に多い。
この、まるで当たり前にようになっている矛盾した状態のことを、認知的不協和 (cognitive dissonance) と言う 。
個体がある事柄について矛盾した、相反する認知もしくは知識をもっている状態をさす。一般にこのような認知的不協和にある個体では、不快や心的緊張が高まり、その結果この不一致を低減させるための行動を生じさせる傾向をもつとされる。 L.フェスティンガーにより提出された用語で、彼は主としてこの概念を基礎に種々の社会行動を理解しようとして、認知的不協和理論を提唱した。
認知的不協和理論(コトバンク)
この社会心理学理論になぞらえると、多くのヴィーガンではない人たちは、
動物が好き
環境問題が気になる
健康管理したい
しかし
動物性のものを消費したい
という2つの矛盾する点を認知する。すると、その自分の中の不協和にいらつき、緊張し、満足・納得する方法を求める。事実、アメリカとヨーロッパでは1/3の人が、肉を食べながらそれを心地よく感じていないとか。それが、どういった形になり、一部のアンチヴィーガンを生むのか。
ヴィーガニズムは
すっぱい葡萄?
認知的不協和について考えていたら思い出した – イソップ寓話の「キツネとすっぱい葡萄」を知っているだろうか。キツネは木になっている葡萄が欲しいけれど、いくらジャンプしても届かない。あきらめたキツネは、「どうせあの葡萄はすっぱい」とその場を立ち去る。ここから派生し、英語では、負け惜しみのことを “sour grapes” と言う。
The tension that results can make us feel stressed, irritated, and unhappy. But instead of resolving it by changing our beliefs or behaviour, it’s quite normal to blame these feelings on something else entirely – all without realising we’re doing it.
結果として生じる緊張は、私たちにとってストレス、いら立ち、そして不幸に感じる要素になり得る。しかし、私たちの信念や行動を変えることによってそれを解決する代わりに、これらの感情を完全にほかのもののせいにするのはごく普通のことである。しかも、無意識の内に。
“The Hidden Biases That Drive Anti-Vegan Hatred“
(BBC Future)
THE LITTLE WHIM 訳
ヴィーガニズムに関する認知的不協和は、ヴィーガンでない人が普通に生活している中でも、感じる可能性や機会は多いにある。しかしその矛盾をより顕著に感じてしまうのは、ヴィーガンに出くわした時。ゆえに彼らに対して嫌悪は生まれてしまうのではないか、と記事は説いている。
In the case of meat, this “motivated reasoning” might lead people to find explanations for why eating animals is the correct decision. And one of these is that vegans are bad.
肉の例で言うと、「動機づけられた理論」は人々が動物を食べることが正しい決定である理由の説明を見つけるように導くかもしれない。「ヴィーガンは悪い」というのも、その説明の一つになるのだ。
“The Hidden Biases That Drive Anti-Vegan Hatred”
(BBC Future)
THE LITTLE WHIM 訳
動物が好き
環境問題が気になる
健康管理したい
しかし
動物性のものを消費したい
⇩
ヴィーガンはいやだ
(だから私はならない)
さらには、(ざっくり言うと)自分にとって称賛に値する、価値ある目的を持った選択をしているグループに対して人は脅威を感じ、それがそのグループに対するネガティブなイメージとして返ってきやすいという調査結果にも触れられている。
Pshychology Today にも興味深い実験結果が掲載されている。”Common = Moral heuristic” という発見手法によると、利己的な行動であってもそれが一般的であれば不道徳性は低くなり、一方で寛大で社会性の高い行動だが一般的でない場合は道徳性が低くなるという内容。つまりは、一般的かどうかが道徳性を左右する可能性があるということだ。
BBC Future の記事は最後にこう言っている。「もし過激なアンチヴィーガンを見かけた時は、こう考えてみて欲しい。この人は奥深い部分では動物が大好きで、だからそれを隠すために、ヴィーガンに対する嫌悪的な行動に出ているのかも、と」(THE LITTLE WHIM 訳)。
私はこの論説は(必ずしも全てのケースにおいてではないだろうけど)興味深いと感じた。自分の中で2つの認知が相反した際、その矛盾を解消するために信念や行動を変えるのではなく、認知的不協和を無視したり、新たな認知を取り入れ、問題そのものをあやふやにしてしまったりすることって、ある。そしてそれが、ヴィーガンではない人の思考の中で(意図してか無意識かにかかわらず)起きうることも。
あきらめてはいけない葡萄
これはヴィーガニズムそのものだけでなく、環境問題においてもよく見かける現象な気がする。例えば、気候危機を考えた際、肉の消費をやめる/減らすことは個人でできる最も効果的な方法であるというのは、環境問題を気にかけている方は、耳にしたことは必ずと言っていいほどあるだろう。
参考記事: 「肉を半分に減らさないと地球に『破滅的被害』」(ナショナル・ジオグラフィック)
それにもかかわらず、肉の消費は世界中で依然増加していると言われている。
私の周りでも、ソーシャルメディア上でエコなアイテム、サステナブルなブランド、エシカル消費について頻繁に語りながらも、肉の消費については一切触れていない人が多くいる(ジャッジメントや批判ではありません)。
参考記事: Can You Call Yourself An Environmentalist And Still Eat Meat? (NPR)
畜産が環境に悪く
肉をやめる/減らすことの効果は知っている
しかし
肉を食べたい
⇩
ほかにも環境悪はあるから
そっちを見よう
(肉はやめないし減らさない)
私には、こういう構図に見えてしまう。その様はまるで、究極的な例を挙げるならば ・・・どこかで火事が起こっていて、近くに消化器とじょうろがあったとする。燃え盛る火を前に、誰かが、消化器ではなくあえてじょうろで水をちょろちょろ流して火消しをしているのを見ているような。
もちろん、じょうろで解決できる問題もある。それが大事ではないと言いたいわけではない。・・・しかし。
動物の命や地球環境は、キツネが食べたかったけれど「どうせすっぱい」と負け惜しみを言った葡萄のように、あきらめがつくものではない。
今大人の世代で、生まれた時からヴィーガンな人はおそらく少ない。みんな、人生におけるどこかで、様々な理由でヴィーガンになった場合がほとんどだろう。最終的にヴィーガニズムを選んだ人の多くは、ことの重大さを識り、きっと自分の中での認知的不協和を感じ、その不協和を正す決断をしたのだ。
動物が好き
環境問題が気になる
健康管理したい
しかし
動物性のものを消費したい
⇩
もやもや・・いらいら・・
⇩
動物が好き
環境問題が気になる
健康管理したい
だから
動物性のものを消費したいしない
⇩
ヴィーガンになろう
矛盾は心地よくない。いらつくし、落ち着かないし、幸せではない。でも、それを避けたり、あやふやにはしたくなかったら、考えて、調べて、不協和を真になくす決断を選ぶ。それは、動物や環境のためにも、そして自分自身のためにも大切なことだったと私は思っている。
最後に
ヴィーガニズムは全ての問題への解決策ではないし、ヴィーガンが完璧なわけでも全くない。でも、細く明るい光が見える先に導いてくれる道だと私は思っている。少しずつ動物性の消費を減らすことでも、その光を浴びることはできる。
私の言葉では足りないと思うので、もしヴィーガニズムに興味があったら、「世界のヴィーガンにインタビュー」でほかのヴィーガンの方のストーリーから、ヒントが見つかるかも。