モノへの愛着は、そこに宿るものへの愛着だから

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少し前に、「サステナビリティとミニマリズムは、ぶつかるところがあるって話」という記事を書いた。

サステナビリティをライフスタイルの軸の一つにする中で、「余計なものの購入・消費を避ける」という意味で、ミニマリズムから倣うところは多い。しかし実際の視点と目指すところで考えると、サステナビリティとミニマリズムは似ているようで異なる(というのが以前の記事で書いていたこと)。

くわえて、これはあくまで私自身のケースだけれど、サステナブルだなんだ気にかけるようになる前は、どちらかと言えば買い物大好きなタイプだったため、その名残りが自宅内には多く居座っている。そういった意味でも、私のライフスタイルは決してミニマルとは言えない。

自分の持っているモノを処分するのが、なかなか苦手だ。すっきりしながら調和のとれた部屋の写真などを見ると、サステナビリティを抜きに単純に美観として憧れる。ところが実際には、多くのモノをどうも手放すことができない。私は、確実にモノへの強い愛着がある

モノがしるす時間と記憶

今年、私は思いがけない形で大切な本を失くした。一冊の単行本が、手元から消えた。それが、私の心の中にぽかんと小さな空白を作った。

往年のベストセラーであり、すごくニューヨークらしい本なので、実は何度か同じ書籍を購入してプレゼントとして友人に送ったことがある。ならば失くしてしまった自分の分も、また買えばいいじゃないか。・・・そういう話でもないのだ。

2013年、ニューヨークに引っ越してきたばかりの頃、私は学生ビザでの滞在で、学校に属す必要があった。のちに通うパーソンズにはまだ願書すら提出していない時期で、CUNY(ニューヨーク市立大学)で ESL (English as a Second Language、第二言語としての英語)コースをとっていた。そこで、私にとってニューヨークで初めてできた友人である Ting から、もらった本だったのだ。

その ESL は母体である CUNY を中心に総合大学への入学を視野に入れており、各国から来たクラスメイトは、大部分がビジネススクールや政治学・社会学の文系、一部が医療系や科学の理系、といった構成だった。しかし Ting は、元々はアニメーターで、ニューヨークでグラフィックデザイナーに転身する夢を持っており、Pratt Institute という名門美術大学への進学を考えていた。ファッションビジネス専攻志望とはいえ同じく美術大学を目指していた私は、彼女と話が合い、たちまち仲良くなった。

ある日突然、「これあげる!」と、Ting は一冊の本を持ってきてくれた。私より1年ほど前からニューヨークに住んでいた彼女が、当時の私の状況だった頃 – ニューヨーク、、、ニューヨーク、、、素敵だけどまだよくわからない – と感じていた時期に読んだ本だと話してくれた。ニューヨークで成功したあるアーティストの自叙伝的回顧録。「ありがとう」と受け取りページをペラペラめくる私に、「そういえばこの本の最後に、私の読後の気持ちをつたない英語で書いたんだよね」と笑いながら彼女は言っていた。

その数週間後、Ting は家庭の事情でホームの台湾に突然帰国することになる。また戻ってくると言っていたが、結局それっきりだ。時々 Facebook などで連絡をとっていたけれど、いつの間にかそれも途絶えた。

その本は、2度読んだ。1度目はもらってすぐ。著者である主人公が1960年代にニューヨークにやってきて、アーティストとして生きるこの街のこと、そしてこの街で出会った人々のことが、描かれている。Ting が私にこの本を薦めた理由がわかった。2度目は、ニューヨーク生活が4年を過ぎた頃、なんとなく思い出して手が伸びた。どちらの時も、最後のチャプターを読み終わると目に入ってきたのは、友人の走り書き。どこか不自然さの残る英語のメッセージ。2012年にニューヨークに降り立って間もなかった頃の Ting がそこにいた。2013年にニューヨークに来たばかりで迷い子の私と、2017年にニューヨークが自分の街と感じるようになっていた私は、感情を共有した。

あれから、パーソンズに合格し、卒業し、就職し、結婚し、etc.、 いろいろあった。友人もたくさんできた。7年と少しの私のニューヨーク生活の中で、彼女と私の友情は刹那的なものだ。それでも、その本を失った私は悲しかった。心の中のぽかんとした空白は、モノとしての本ではなく、もっとかけがえのないものを失ってしまったことにより、開いた。私がニューヨークにやってきたばかりの頃に初めてできた友人、もうここにはいないとしても本があることで感じられた Ting の存在が、ぽかんといなくなってしまったんだ。まるで、2012年の彼女も、そして2013年の私も、一緒に消えてしまったかのように。

書籍も音楽も、モノとして育ってきたから

私は1980年代生まれ。2020年まで生きてきて、読書や音楽の楽しみ方は、何パターンものアップデートを経験してきた。たとえば音楽は、兄のカセットウォークマンに憧れていたら、CDウォークマンを買ってもらって喜び、MDプレイヤーを手に入れ、それも気づけば iPod になり、Tower Records やツタヤにとって代わるように iTunes が現れ、そして今は Spotify でプレイリストを作る。書籍は音楽ほどドラスティックな進化はないとはいえ、かつては電子書籍という選択肢はなかった。Audible の楽しみ方を知ったのもここ数年だ。

私が慣れ親しんだ書籍や音楽には、存在があった。本の表紙、装丁や手触り。CDのジャケット、帯や歌詞カード。私が10代の頃読み、聴いていたものは、そういった要素も含めて成り立っていた。そして、本のページに鉛筆でなにか書き込む音を聞き、しおりや花をはさんで閉じ、雑誌のビジュアルを切り抜いてコラージュ作りに没頭し、CD・MDやメモリーにお気に入りの音楽を集めてオリジナルをこしらえた。

また時間を少し遡る。渡米する前、私と夫は約半年の間、東京 – ニューヨークで遠距離恋愛をしていた。毎日のように FaceTime をしつつ、郵送で手紙を送り合ってもいた。まだ Spotify を利用していなかった当時の私たちは、USBメモリーに好きな音楽を入れて、手紙に同封し交換こした。彼からUSBメモリーが届くと、それをハードドライブに入れて彼が選んだ音楽を聴き、FaceTime でその話をする。そしてまたそのUSBメモリーに、次に手紙を送るまでに私はどの曲を入れよう、と考えるのが楽しかった。

彼の iMac と私の MacBook、それぞれのハードドライブはその半年後には同じ屋根の下に存在するようになる。所有している全ての音楽は、共有できるようになった。それでも、その当時交換し合っていたUSBメモリーを、ほかの目的のために使用するのははばかられた(もはやUSBメモリーをあまり使わなくなったのもあるけれど)。きっと80年代であれば、大切な人からもらったミックステープのツメを折って上書きできなくするかのように、私たちのUSBメモリーは最後に交換した状態で止まっている。離れていたあの頃の私たちを保存している。

今でこそ、Spotify で簡単にプレイリストを作り送り合うことができる。すごく楽しいし、その方がずっと簡単だ。もはやメモリーなどいらない。それでも、ふとした時に出てくるその小さな思い出のかけらから音楽を再生し、あれこれ話し出すと止まらない。味気ないプラスチックの一片は、二人の記憶を呼び起こす。

時間と記憶を、堂々と愛でたい

失くした本は、もう何年も読んでいなかった。それは「いらない」はずだった。USBメモリーに入っている音楽にはハードドライブや Spotify からアクセスできる。これも「いらない」はずだ。似たような状況で、所有しているだけのモノが私には山ほどある。自宅は小さい。住んでいる建物の地下のストレージ収納に押し込むにも、限界がある。

「断捨離」やミニマリズム、そしてそこにサステナブルな視点が加わるエコ・ミニマリズムなども語られる中、「整理整頓する/しない」かは、「手放すことができる/できない」という、モノへの愛着と決別する能力が基準の一つになっているように感じる。もしその通りだったら、私は多くの整理整頓術において、間違いなく落第するのでは?決断できないことに後ろめたさを感じる。

そうだ、片付けをコンサルする「こんまりメソッド」では、ものをたくさん処分するイメージが強いけれど、愛着のあるモノに「ときめき」はどう作用するんだろう?すると、「どうしても捨てられないなら堂々と取っておけばいい。『ときめくから残すという今の自分の判断を信じよう」という一節を見つけた。そっか。確かに、愛着はときめきでもあるもんね・・・(ほっ)。

参考文献: 「こんまり流×思い出と向き合う 残すモノ飾って生かす」(Nikkei Style)

友人からもらった本を、不注意で失くすのではなく、自ら手放していたらどうだっただろう。やはり後悔したかな。彼女の手書きのページを写真に撮ってからお別れしたら、満足だったかな。もはや想像に過ぎないけれど、きっと私は手放すことはやはりできず、「どうしても捨てられないから堂々と取っておいた」だろうな。

モノへの愛着が、そこに宿るものへの愛着であることは、往々にしてあると思う。手放す能力の欠如は、hoarder(やたらモノを貯め込んでしまう、捨てられない人)の場合もあれば、時間や記憶をとっておきたいセンチメンタリストでノスタルジストなこともある。モノの価値を、そこに宿るものによって尊く感じる私は、それを堂々と愛でたい。

積み重なる時間と記憶

そう感じる背景には、自分が歳をとったという事実もあるかもしれない。

またしても時間を巻き戻す、しかも今度は大幅に。私の両親は、兄や私が産まれる前から10年近く、ロンドン郊外に住んでいた。1980年代に、今の私より若くイギリスでの暮らしを始めた二人は、現在の私の海外暮らしの感覚よりずっとずっと「遠くの」生活をしていたはずだ。そして、私が子どもの頃から知っている我が家は経済的に裕福だけれど、当時の二人はそうでもなかったと思う。

上のインスタグラムに登場するのは、その彼らがロンドンで手に入れたアクアスキュータムの毛布。東京を経て、今私がニューヨークで座っているカウチの上にある数十年ものだ。両親の20代から30代にかけてのイギリスでのこと、そして毛布を手に入れた頃の両親と同じくらいの年齢で住み始め、8年目になる私のアメリカでのこと。ほかにも毛布はあるけれど、この一枚が持つストーリーは、飛び抜けて長い。私が歳をとっていくにつれ、この毛布に宿る家族のストーリーはより濃密になり、ゆえに私の愛着は強くなる。

歳を重ねるごとに、そうゆうものは増えていく。私には失いたくないものが多いのだ。たくさんの小さな幸せに囲まれているようにも感じる。

モノとしても、ものとしても

私が失くしてしまった本は、今どこにあるのかな。できることなら、古本屋さんやフリーマーケットで欲しいと思う誰かの手に渡ったり、もしくは図書館に寄付されて多くの人々に読まれていたらいいな。ものの価値は人それぞれの世界で生まれるとはいえ、モノでもある以上は、その機能も果たして欲しい。本である以上は、読まれて欲しい。

私が愛着を持ちながらも何年も読んではないなかった本は、モノとしては機能していなかった。そう考えると、私の本棚から旅立ってよかったのかもしれない。

ならば、Ting と私の時間と記憶を運びながら、どこかで読まれて、モノとしても、ものとしても、あの本が生き続けているのを想像したい。そして最後のチャプターまで読み終わった誰かが、2012年にニューヨークで夢を持って暮らしていた若い女性が記したメッセージをもし見つけて、くすっと顔をほころばせたり、なにかを感じ取っていたら、それが私の心の空白を埋めてくれるだろう。

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