どんなときも。

Spotify をはじめとした音楽配信サービスは、ありがたいとともに、罪深くもある。

私のように遠い国に行っても、もう聴くことはなかったかもしれない懐かしい J-Pop にアクセスできてしまう。なかなか思い出すことはなかった懐かしい記憶を、鮮明に蘇らせてしまう。そこから、感情と思考のどうどう巡りを繰り広げる羽目になる。

東京で大学生だった頃、私はいわゆる軽音サークルに所属し、ドラムをやっていた。今となっては簡単なビートとちょっとした「おかず」しか叩けないけれど、当時は防音室やスタジオに通い、いつもズボンにスニーカー姿でスティックを持ち歩き、手のひらにはいっちょまえにマメをつくることもあった。

サークルの仲間たちの好きな音楽はさまざまだ。同じものが好き同士、違うものが好き同士、まさにいくつもの輪が存在する。音楽だけでなくいろいろな、くだらない、けれどかけがえのないものを共有してきた。

大学3年生の学園祭は、引退の時。最後のステージで、槇原敬之の「どんなときも。」を演奏した仲間たちがいた。どこからひっぱり出してきたのか… 思いがけない選曲は、あの日の私たちに実にぴったりだった。普段は、ギターソロでいびつなノイズ音を出し、ギターと同じ数の弦があるベースを叩くようにはじき、ツーバスをドカドカ踏み、歌詞を覚える意味はあるのかと思うほどなにを言っているかわからない声を唸らせていた者たちまでも、大合唱したマッキーの歌。

泣けた。「今までありがとう」と「これからどうしよう」がごっちゃまぜになる大学3年生の秋。お揃いのTシャツを着た私たちは、泣いた。もう、それはそれは泣いた。

4年生になっても顏を合わせていたし、卒業後も輪はそこにあった。就職した、大学院に行った、地方や海外に移った、転職した、休職した、結婚した、離婚した、子どもが産まれた、家を建てた、2人目ができた・・・みんなだいたいは知っている。つい先日も誰かが結婚し、その知らせはインターネットを通してニューヨークにも届いた。なにかある度に、前置きなしに会話が始まる。今では会う機会はめっきり少なくなったけれど、私たちの時間は続いている。

2021年1月。ふと、Spotify の検索バーに、どんな、、、と入力した。「どんなときも。 – 2012 Remaster」と出てきた。アメリカの Spotify は日本の曲が限られているから、ないかと思ったのに…。三角の再生マークを押す。

泣いた。それはそれは泣いた。なんということだ。

出かけることが少ない今いつも隣にいて、だいたいのことは共有するパートナーは、ヘッドフォンを着けてうぐーっとなっている私の様子に気づき、ぎょっとしていた。けれど、こればかりは彼と共有するのはむずかしい。私の仲間たちに会ったことがあるとはいえ、私たちが出会うよりずっと前、東京とニューヨークでそれぞれ違う大学生活を送っていたパートナーとは、どうしても分かち合えない。説明できるものではない。

マッキーはこう言っている。

“昔はよかったね”と いつも口にしながら
生きて行くのは 本当に嫌だから

「どんなときも。」槇原敬之

最悪だと思った今日が過ぎても、昨日はマシだったと思ってしまう日々が続く。ニュースを見ていいことがあったとしても、よくないことの強いインパクトで押し潰される。それが繰り返されるなか、「昔はよかったね」が本当に嫌だという曲を、「昔はよかったね」を欲しながら聴きたくなったのだろう。皮肉なものだ。

どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために

「どんなときも。」槇原敬之

私だって、自分らしくいたい。みんなで大合唱した頃は、若く、ものを知らず、自分らしかった。そこから、少なからずの制限や波はあれど、私はずっと私だったはず。変わらない芯がどこかにあった。

しかし最近はどうだ。急に、自分らしくいること自体が疑わしくなった。家に籠り、人と顔を直接合わす機会は限られている。遠い人たちがさらに遠くなり、近くにいる人たちまで遠くなった。自分の周りというものが狭い。同時に、住む街も、遠くの地も、パンデミック、危機、非常事態、分断や暴動を経験している事実が伝わってくる。自分の存在ばかり強く感じる日々で持つ自分らしさは、悲しいニュースや信じがたい現実を知り、昨日、今日、と過ぎる内にどんどん弱くなっていく気がする。

もとを辿ればほとんどが同じ根源から起きているように見えることが、こんなにも世界を分け、私たちは混乱している。私はどこにいる?私はなにを信じている?私はどうしたい?・・・それが一体なんだというのだ?自分らしくいることは、もはやなにももたらさない、まるで意味がないこととして返ってくる。

「昔はよかったね」は、よくない今を送っている時こそ抱いてしまう。「どんなときも」「僕が僕らしくある」ことを信じる歌を聴きながら、どうしてもそう思えない時はどうしたらいいのか、おしえて欲しくなる。

どんなときも どんなときも
迷い探し続ける日々が
答えになること 僕は知ってるから

「どんなときも。」槇原敬之

今は、なにを迷い探しているのかすらわからない、答えがあるのかどうかも見えていない。「どんなときも」とは言っても、未曾有の今は、この歌の想定外なのかもしれない。「そんなとき」を生きているのだ。

思いもしなかったことが、思いもしない速いペースで起きている。「昔はよかったね」と振り返らざるを得ないことが、これからさらに増えていく不安もある。(もちろん、「今(の方)がいい」と思えることもあるはずだし、それが続く日々がくるのを願っている。)

「昔はよかったね」「そして今は今だね」と、その時どきの自分らしさで受け止める・・・それが「どんなときも」「僕が僕らしくある」ことになっていくのかな。

1991年に発表され、2012年にリマスターされた「どんなときも。」を何度も再生し、2021年の解釈を探りながら、私は最後の一回を聴き終えた。

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