ヴィーガニズムが直面していることから考える、「自分ごと」の限界とインターセクショナリティ

veganuary 2021
Veganuary (年始だ!ヴィーガニズムについて考えよう!)
である1月は、ヴィーガンのテーマにフォーカスします。
Veganuary 2021 関連記事はこちら

ヴィーガンに関することといっても、今日は、ヴィーガンコスメやプラントベース食の話ではない。

今、英語圏を中心としたヴィーガンコミュニティで起きているある論争が、ヴィーガニズムの枠を超えて、向き合うべきことに向き合おうとする大きな動きに発展している。ヴィーガニズムを通して見えてくる、抑圧や差別などの多くの問題が起因する根本について、一人ひとりがどう受け入れたうえで先に進んでいくべきなのか、という話。まぁ要は、すごく複雑。

この論争について、私には理解が稚拙な部分も多いし、そもそも必ずしも正誤があることとも思ってはいない。ただ、議論を知り、その本質を理解し、今すべてには釈然としなくても、ひろい視野で向き合っていきたい事柄だと思っている。

この記事はあくまで、TLW 運営者である COOKIEHEAD 個人の見解です。

投稿するにあたり、カナダの大学院で批判的社会学を学びながら、反抑圧的なヴィーガニズムとインターセクショナルな環境正義の理解を深めるために活動している all_animals_japan さんに読んでもらい、フィードバックとアドバイスを受けました。

友人でもある彼女のインスタグラムには学びが多く、考えるきっかけもたくさんもらいます!

Unlearn & Learn のプロセス

最初に、なぜこれについて話す必要があると感じたかについて。

世界では、ここのところずっと unlearn & learn(今まで学んだことを一度捨て、学び直す)という動きが高まっている。おもに人と人の間に起きている格差や論争を通して、人種、肌の色、文化、宗教、植民地主義、地球の北と南の関係性、ジェンダー、セクシュアリティ、年齢、身体的・精神的障害、社会的立場、外見… 多くの項目において、「当たり前に感じていた」「そう習った」「そうだと信じていた」概念の数々を認知し、根拠の真偽を判断したうえで必要に応じてそれらを一度手放し、そして学び直し理解し直す必要がある事象が、私たちにはたくさんある。

2020年から今にかけて起きたことだけから見ても、unlearn & learn の必要性は顕著だった。

COVID-19 で誰もが苦しむなか、社会的・経済的なものさしで測れる苦難があるとしたら、そこに圧倒的な不均衡を見なかった?#BlackLivesMatter のムーブメントを通して、抑圧されている黒人たちの背景にあることは、想像を絶するものではなかった?アメリカ大統領選とその後の混乱からは、極みを見せた二項対立の恐怖を感じなかった?そもそも、報道されている「世界」の混乱は、自分が「見せられている世界」であって、「見る機会を与えられていない世界」で起きていることを考えなかった?

今、こういった疑問を持ち、社会や世界を見て unlearn & learn するプロセスは、社会正義運動の一部としてのヴィーガニズムの理解をより深め前進するうえでも、欠かせなくなっている。

起きている論争とは

ヴィーガニズムは、「動物の搾取を引き起こす方法を不可能ではない限り避けて生きるべきという主義」(ざっくりです)と言えるけれど、その先には「動物の解放」(animal liberation) がある。人間である私たちが動物の利用をやめることは、そのプロセスの大事な一つ。

今は、おもに食の面から、畜産の環境負荷を懸念する動きもヴィーガニズムの大きな一部になっている。これも同時に、動物の搾取を避けるとともに、自然のなかでのエコシステムへの影響を考えると、環境だけではなく動物倫理を考えた解釈ともとれる。

ではこのヴィーガニズムにおいて、なにを unlearn し、learn するのか?

いよいよやっと、冒頭から触れている論争の話をする。これは James Aspey(オーストラリア在住)をはじめとした一部の著名ヴィーガン活動家/インフルエンサーが提唱する理論から発生している。

(実名を挙げたのは、この論争を知らない方々がその背景の情報を得ることを目的としています。特定の人物たちを指摘することはこの記事の主旨ではないので、一名に限定しました。)

彼らの理論とは、「動物が扱われている現状は、ホロコーストと同じである」「動物が扱われている現状は、奴隷制度と同じである」というものだ。それを示すハッシュタグを利用して叫ぶ声を、大きくひろく響かせている。誰の耳にもショッキングであろうし、動物を利用するシステムやイデオロギーが「当たり前」だと思っていた層には、がつんとくるだろう。

けれでも、こういった歴史的事実を引用することの「ショッキング」さは、すべての人びとに同等ではない。ホロコーストや奴隷制度を経験、もしくはそこから続くそのほかの形での抑圧を受けている当事者には、どう受け入れられる?

そういった考えからこの論法が反発を受けるのは特に、それを投げかけるヴィーガンがおもに白人(※ここでは、<1. ナチスドイツによる迫害・民族浄化・収容・殺戮を受けたユダヤ系およびその他の民族ではない 2. 各国の奴隷制度の被支配者ではない 3. そのどちらの子孫ではない>白人を指します)である点にある。

(ナチスドイツによって迫害されたのはユダヤ系民族だけではなく、ロマ民族、スラブ系民族なども含まれます。また、同性愛者や障害者など、民族以外のくくりでも対象になりました。記事内では以降、列挙を省いていることをご了承ください。)

実際にホロコーストや奴隷制度により抑圧されたり、それを経験した人を先祖に持たない白人が、動物の苦境を示す目的で他の存在が経験した苦痛を引き合いに出す。これが、当事者たちの苦痛とトラウマや、先祖からの継承を無視していると言われている。さらにそれは、過去に存在した迫害や差別というくくりだけではなく、現在も形をかえた抑圧として継続している事実や、現代社会においてさまざまな抑圧を受け(続け)ている多様なマイノリティの存在も、ないがしろにしたり踏みにじってしまう

そこから、こういった白人たちが持つのは、人種差別主義 (racism) 、白人至上主義 (white supremacy) もしくは反ユダヤ主義 (anti-Semitism)ではないか、という指摘に発展する。

一方で、ホロコーストや奴隷制度を経験したりその当事者につながりを持つ人間と、それに近いと比喩される状況にある動物が並べられることに、ストレスや憤りや違和感などを抱くのは、人間 (human) と動物 (non-human animal) は異なるという強い認識からきている証拠であるとの反論が生まれる。

ゆえに、こういった感情を抱くのは、(種別間の優越判断が自分の都合で決まる)種差別主義 (speciesism) ではないか、という異議が唱えられる。

特にホロコーストに関しては、私が理解する英語(日本語と英語以外の言語のことはわかりません)での議論になると、背景には言葉の複雑さもある。a holocaust と、the Holocaust では、指すものが変わるのだ。a holocaust だと一般的・広義の大虐殺を意味し、the Holocaust だと、第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人およびその他民族の絶滅政策・大虐殺を指す。前者はまだしも、後者だとダメ… この2つが交錯しているのも、論争をさらにややこしくしている。

しかし、そこを指摘し合うのは、言葉の綾をつつき合っているとも言える。ホロコーストと聞いて、20世紀に実際に起きた特定の大虐殺がまず頭に浮かんでしまう場合がほとんどだろう。むしろ、使っている側もそれをわかったうえでこの言葉を選んでいるのではないだろうか。

こういった論争をヴィーガンコミュニティ内で聞くのは、初めてのことではない。ただ、今再びこれが論じられているのは、それがまさに必要な時だからだと私は思っている。差別主義、至上主義などととらえられる概念が、知らず知らずのうちにさまざまな輪において蔓延している現実を突きつけられる出来事がひっきりなしに起きている。これに、関連する事象を unlearn & learn するプロセスを通して、今多くの人びとが向き合っている。その作業は、ヴィーガニズムにおいても必要なのだ。

「自分ごと」の限界

私自身は、ホロコーストや奴隷制度を引き合いに出すヴィーガン活動家/インフルエンサーが、なにをどこまで理解したうえでこの方法をとっているのかは知らない。差別主義や至上主義を持ち、意識的なのかどうか、本当のところはわからない。

実際、それが意識的か否かは、もっとも重要ではないとも思う。どうであれ、現に「配慮が足りない」「お門違いだ」「ありえない」などさまざまな反応を生むからだ。

ものごとを多角的に論じるうえで、比較は、想像をかき立て理解を助けるとても効果的な方法である。しかし、痛烈な苦しみが想像できるからといって、実際に想像に過ぎない苦痛を個別のムーブメントに用いるには、相当な注意が必要だ。2つの異なる苦痛であることをあやふやにしたり、場合によってはどちらかがどちらかを書き換えるほど強いメッセージにしてしまうことは、避けなくてはいけない。そして、当事者自身がその痛みがわかるからこそ賛同するということもおおいにあるけれど、過去に起きた抑圧を他者が蘇らせる二次的抑圧の可能性の高さもある。

その痛みは、やはり当事者にしかわからないのだ。

(そもそも、動物の屠殺と民族大虐殺は根本的に異なると私は考える。動物の屠殺は人が利用するために行われており、新しい命も産み続ける搾取のサイクルがある。一方、民族大虐殺は民族浄化や断絶が目的である。この2つは、行為は似ていても実質は非なるものではないか。そういった意味でも、引き合いに出すのは違和感があるが、そこは本題ではないのかもしれない。)

私自身も、この考えをめぐらせるなかで、動物を利用する産業に別の言葉をあてて解釈したことがあるのを思い出す。たとえば私は、酪農業において人工妊娠・搾乳を繰り返される雌牛の生涯は奴隷のそれと同じようだと感じたし、彼らを人工的に授精させるのはレイプとどう違うのだと思った。しかし、私は実際に奴隷として支配されたり、性暴力を受けたことはない。その苦痛を、本当には知らない。そのことに、はっとする。

動物の持つ権利を理解しよう… そのためにはまず、動物が置かれている状況を「自分ごと」として受け入れようとする。しかし実際に、それには限界がある。想像はあくまで想像なのだ。想像に過ぎない動物の苦境を、さらに奴隷制度や性暴力など想像に過ぎない苦痛で想像しようとし、それで理解したと解釈する。そこまではまだ方法として肯定できるとしても、それで得た解釈をもとにヴィーガニズムの活動をするとなると、なんだか急に歪みが見えてくるのだ。

シングルイシューのアプローチ

ヴィーガニズムにおける動物の解放に、シングルイシュー(単一論点)としてアプローチすることが、こういった矛盾を引き起こしている原因の一つなのかもしれない。

動物の搾取・利用が終わらないのは、動物の権利を理解しようとしない人が多いから(だけ)ではない。要因は、何層にも重なり合った、人間が作ったシステムや社会のあり方に深く関係する。

人間が作ったシステムや社会があり、そこに動物の生が組み込まれているという現状がある前提で、それをどう変えていくか。そこには、決してシングルイシューではない、複雑かつ交錯する人びとの存在をしっかり受け入れないことには、どうにも進まないのだ。動物の解放を唱えるには、実際に今動物が抑圧されている社会、つまり人間社会のことにも目を向けないことには、始まらない。

それどころか、複雑かつ交錯する人びとの声を利用しながら動物の権利だけに焦点を当てようとするから、今回の論争のようにさらなる問題を生んでいるのではないか。そしてこれは、動物と人、どっちが大事?という議論をすることではない。動物であっても人であっても、抑圧される存在のことを考える必要がある。

インターセクショナリティ

そこで重要になるのは、やはりインターセクショナリティだと私は思っている。インターセクショナリティ (intersectionality) は、そのままだと「交差性」という意味で、Kimberlé Crenshaw が30年前に唱えたのが起源。複数の異なるアイデンティティが重なり合うことで生まれるいくつもの層が作り出す構造を理解し、それぞれの層における特有の抑圧や差別が交差している状態を明らかにするためには必要なキーワードだ。

私の場合は、日本出身の日本人で、(東)アジア系で、アメリカ永住者で、女性で、シスジェンダーで、ヘテロセクシャルで、身体的・精神的健常者(と呼ばれるカテゴリーに入る人)だ。日本でもアメリカでも、抑圧を感じる機会はあるとはいえ、日々自覚し苦痛となるほどではない。インターセクショナリティを考慮したうえで、私は特権があると自ら判断する。

インターセクショナリティを意識すればするほど、先ほどの「自分ごと」という考えは限界にぶつかることの気づきにもなる。性暴力被害を受けやすい大多数である女性として、実際の被害者の気持ちを想像し、かつそれを利用しながら、種を超え同じ女性性である雌牛を守ろうとするのは、私が個として持てる正義なの?想像による理解を、運動にまで取り入れようとする正義は、偏っていない?

むしろそれは、性暴力被害を受けた過去を持つ女性、つまりは同じ女性であっても私より複雑なインターセクションに立つ人びとのマイクを傲慢に拝借し、私は声たかだかに叫ぼうとしているのに過ぎないのではないか。その奥にある正義と、saviorism(救世主主義)や heroism(英雄主義)との境界線はどこなのだろう。

これは、ヴィーガニズムに限ったことではない。気候危機、人種、LGBTQ+、フェミニズム… インターセクショナルに社会正義に取り組むためには、なにが必要…?

他の声を聞き、協力し合うこと

個々の持つ要素は、交差し合ったり離れ合ったり。時にそこから、徐々に分断が生まれ、混乱し、論争に発展する。

今一度立ち止まり、他の声を聞き、対話や議論を続け協力し合うことの価値を、私たちはもっと尊重しなくてはいけない。

今回の論争の中心にいる存在たちが、差別主義者や至上主義者などとして指摘されるのは、その姿勢が欠如しているからだと私は感じている。彼らは今、歩み寄ることは自らを破滅させることであるかのように恐れており、自らの特権(および他者の抑圧)を軽視し、自分が正しいと信じることだけを推し進めることに必死である。それが、結果的に偏った主義としてとらえられる。

正義を唱えるうえで、当たり前だったことを手放し学び直す unlearn & learn のプロセスを踏むことは必要不可欠である。そして、シングルイシューとしてのアプローチは、多くのものを見落とす。そのなかで、さまざまな事象を「自分ごと」としてとらえるのには限界が出てくる。だからこそ、インターセクショナリティを尊重し、多種多様な声を聞き入れ、さまざまな特有の視点や論点から導かれ、より「自分ごと」に近い解釈ができる人びととも協力し合って向き合っていく。それが今まさに求められているのではないだろうか。

同時に、(今回の論争の中心で大きな声をあげている活動家で、そのなかでも特に白人男性のように)たった一人の英雄が複雑に交錯する問題を解決できると過信し、ゆだねようとするパブリックにも、考え直す必要がある。


ここで私が触れられる問題は、ほんの一部に過ぎない。たとえば、大虐殺はホロコーストだけではないように。抑圧が存在するのは、奴隷制度や植民地主義だけが原因ではないように。それほど、世界中ではショッキングな問題が山ほど起きている。私はきっと呆れるほど少ししか見えていないし、知らないし、考えることもできない。

「自分ごと」でない以上は、外からしか情報は得られない。しかし、「ショッキングなので知っておく必要がある」として歴史の教科書や報道で伝えられることがあれば、「重大ではないで認知する必要はない」として埋もれてしまうこともある。そういった客観的判断によって、ひろく知られもしないことがあること自体が、ショッキングではないか。

ヴィーガニズムが救世主主義や英雄主義としてとらえられることからの脱却のためにも、ひろい視野で見て、多くの声に耳をかたむけ、協力し合い、今ある正義を強くすると同時に、弱さや偏りは立て直したり作り替えていく。今回の論争が、そうやって発展していくことに期待したい。

最後に、インターセクショナリティを重視したヴィーガニズムのあり方を説いている発言者の声をいくつかシェアして、終わりにします。