サステナブルだエシカルだなんだ言いながら、もやもや悩んでもいる

真面目に悩んでいるので、真面目に書く(いつも真面目に書いているつもりですが・・・)。

個人 vs. でっかいもの

サステナビリティ、エシカル、エコ、ヴィーガン、etc. 私はそういったことを、この場所で書いている。インスタグラムでは、#oootd (old outfit of the day) やお直しをしながらじっくり向き合うファッションや、ヴィーガンな暮らし方、ローウェイストの工夫などを投稿する。お仕事も、サステナ関連をテーマにリサーチや翻訳、執筆、お話しする機会が中心になってしばらく経つ。とはいえ私は、科学や政治・社会学などの専門知識・経験があるわけではない。あくまで、ファッションビジネスの経験を生かしつつ、ふわふわとした総合ライフスタイル系としてやっている。

気候危機や動物倫理、廃棄問題、人権侵害など、私が個人的に、そしてはしくれながら職業としても向き合っているトピックの奥にある問題は、巨大だ。ふわふわではどうあがいても立ち向かえない。私が実際に個人として送っているライフスタイルや持っている理論、そしてそれらを広めること – どれもどう考えても小さ過ぎる。米粒どころか、キヌア粒かごま粒、いや、すりごまよりも小さい。

そんな中、Big Oil と呼ばれる巨大石油会社の一つ、Shell のツイートが目に留まった。

What are you willing to change to help reduce emissions?

– Offset emissions

Stop flying

Buy electric vehicle

Renewable electricity


[二酸化炭素] 排出削減のため、次のどれを変えたい?

– 排出をオフセットする

飛行をやめる

電気自動車を買う

再生可能電力に変える

THE LITTLE WHIM 訳

・・・!? もう一度言うけれど、呼びかけていたのは石油会社の Shell 。この皮肉は、人々が溜め込んできたフラストレーションの炎に、まさに油を注いだ。

気候正義活動家のグレタ・トゥーンベリ氏はこれに対してこう言っている。

I don’t know about you, but I sure am willing to call-out-the-fossil-fuel-companies-for-knowingly-destroying-future-living-conditions -for-countless-generations-for profit-and-then-trying-to-distract-people-and-prevent-real-systemic-change-through-endless greenwash-campaigns.

あなたはどうか知らないけど、私は間違いなく、「数々の世代の未来の住環境を破壊することを知りながらも利益を優先し、そしてグリーンウォッシングを続けながら人々の意識を逸らして真の構造変革を妨げている化石燃料会社を厳しく指摘」をしたい。

THE LITTLE WHIM 意訳

AOC ことアメリカ民主党ニューヨーク代表のアレクサンドリア・オカシオ・コルテス下院議員も、黙っていない。

The audacity of Shell asking YOU what YOU’RE willing to do to reduce emissions.
They’re showing you RIGHT HERE how the suggestion that indiv choices – not systems – are a main driver of climate change is a fossil fuel talking point.

なんとまぁ、Shell が、「あなたたち」に「あなたたち」が排出削減のために何をしたいか聞いているという!まさに彼らは今ここで、システムではなく個人の選択が気候変動の主要要素であると言っている。それこそが、石油燃料業界が進める議論のやり方。

THE LITTLE WHIM 意訳

そのほかにも、同様のコメントや引用リツイートが繰り返されているのが見られる。一応補足しておくと、Shell は2050年までにネットゼロエミッション達成する目標を発表したばかり。とはいえ、石油会社によるあまりに軽率なツイートには、共感は集まらなかったようだ。そりゃ怒るわ。

(そもそも、今では聞かない日はない carbon footprint(カーボンフットプリント)は、石油を中心としたエネルギー会社である BP によって初めて使われたと言われている。増え続ける二酸化炭素排出を考える際の視点を個人の選択や行動に移したのは、元をたどれば石油会社であるという皮肉。)

しかしそれは同時に、私自身のふわふわとした営みに、もやもやとして返ってくる

私の送るメッセージは、サステナブルやエシカルといったキーワードのもと、一体何をもたらせているのだろうか。それどころか、「生活者のライフスタイルや生き方に問題があり、それを変えることが最も有効的な解決策である」的風潮にモロに乗っかっているとも言える。本来は、ふわふわだけでは到底たどり着かない、政府やビジネス・業界での大きな変換が必要であることを理解しながら。

先日、環境系カルチャーメディア Atmos に掲載されていた、サステナブルファッション提唱者の一人 Elizabeth L. Cline による記事、 “The Twilight of the Ethical Consumer” を読んだ。拡大し続ける個人レベルでのエシカル消費主義が持つ実際の効果に疑問を投げかけ、それよりも政治や構造の改革をもたらす、消費におけるアクティビズムこそが必要だと解く。

Ethical Consumption can ultimately serve as a type of delusion or fantasy where we tell ourselves that our economic actions are righteous and that we’re doing our small part to make a difference, even in the face of underwhelming evidence.

[…]

I have started to wonder not only if Ethical Consumerism is ineffective, but also, whether it’s actually getting people killed and driving our planet to ruin, and why we continue to throw our power away on ethical shopping.


エシカル消費主義は、究極的には一種の妄想または空想として機能する。大した効果を生まないという証明に直面しながらも、私たちの経済的行動には正当な力があり、そして私たちは小さな役割を果たしながら違いを生んでいる、と自分自身に伝えているに過ぎない。

[…]

私は、エシカル消費主義が非効率ではないかという点だけでなく、それが実際に人々を殺し、地球を滅ぼしているのではないか、そしてそれでもなぜ私たちはエシカル消費主義にムキになり続けているのか疑問に思い始めた。

The Twilight of the Ethical Consumer” (Atmos)
THE LITTLE WHIM 訳

さらに彼女はこう続ける。

We must confront that it’s unacceptable and arguably deeply unethical itself to ever tie human “goodness” to what we buy.

人間の「善良さ」を私たちが購入するものに結び付けることは、容認できることではなく、間違いなく非常に非倫理的であることに、向き合わなくてはいけない。

The Twilight of the Ethical Consumer” (Atmos)
THE LITTLE WHIM 訳

ちくり…。かねてから心のどこかで感じていたことだけれど、記事内で述べられている「妄想」や「空想」というのは、どこか自己満足につながっているのかもしれない、というもやもやが濃くなる。しかも、たとえそうだとして、それが自分の中で済めばまだいいけれど、問題とその本質的解決から目を逸らす上に、自分と同じようには問題に向き合えない可能性がある人々を置き去りにしているのは、罪深い行為になっているのではないか。

すりごまにも及ばない自己満足的正義はこの辺で終わりにし、アクティビズムと呼べるほど大きなことだけに集中するべきではないか、と記事は私に呼びかけている。

Elizabeth のファストファッションに関する書籍 “Overdressed: The Shockingly High Cost of Cheap Fashion” はオススメ!

自己満足と、個人の思い

・・・でもね、ちょっと待って。ひと呼吸おく。実際に私は、自分のサステナブルな選択が世界を救うなどと、思ったことはない。私のエシカルな行動で気候変動もゴミ問題も苦しめられる動物や人々も、全て救い出せるなど、まさか考えていない。そうか、私の自己満足は、そういった問題解決の達成から得たいのではない。一人の責任ある人間として気づきと意識のある生活・人生を送ることの達成からきているのだろう。

たった一度の人生、自分が正しいと信じる生き方を可能な限り実現しようをするのは、間違っているのか。私は、気づきと意識を大切にしたい。日本語で「意識高い系」というと厄介でめんどうくさい印象を持つが、私がここで言いたい「気づきと意識のある」とは、英語の “conscious” という言葉に含まれるもの。

動物と人を苦しめ地球を傷つけながら続けられている現状の畜産のシステムに気づき、意識している。製造においても廃棄においても、地球と動物と人に害を及ぼし土地と海にゴミを足し続けている不必要なプラスチックに気づき、意識している。一方で巨大な富を生みつつ、もう一方では生活賃金さえ保証されず安全・健康的ではない労働を強いられた人々がいることで成り立つ大量生産・大量消費型のビジネスに気づき、意識している。

それが、倫理観を作り上げる各個人の思いではないか。

気づいて、意識した上で、直接的な解決に至らなくても、問題に直結しているものを避けたり違う選択肢をとる生き方をし、それを続けることが、私が一人の責任ある人間として送りたいライフスタイルになって表れている。それが可能である立場にいる私が、その選択・行動に結果的に満たされることは、特権を駆使しながらのもやもや肯定なのか。それは、かえってよくないことなのか。わからなくなる。

自己満足に攻撃力を持たせる

Elizabeth L. Cline の記事が掲載されたのと同時に Atmos が投稿したインスタグラムには、一部語弊があるように見受けられたのもあり、コメント欄では議論が発生した(英語を理解する方はぜひ読んでみて欲しい)。この投稿には「エシカル消費者はそんなにいらない、消費のアクティビストがもっと必要」と大きく書かれており、それが物議を醸したようだ。「個人の動きとパブリックなアクティビズム、必要なのはどちらもじゃない?」といった意見が多く寄せられている。Atmos も、Elizabeth も、それには同意しつつ、もっと大きな効果をもたらせるよう政府やビジネス・業界へ働きかけることの重要性と、エシカル消費主義は一定の層に限られていることを強調する。

反論があったこと、そしてそれを受け止めた上でも説く消費のアクティビストの必要性、どちらも咀嚼した上で理解する。

私は一人の人間である自分が果たしたい生き方として、サステナブルでエシカルな選択・行動はやはりあきらめたくないと思っている。その上で、自己満足に攻撃性を持たすべきなのだろう、と考える。

ふわふわしながらもシステムへの働きかけとの距離を縮めることは、可能だ。私は、地域での営みに一市民として関わることで自分の攻撃性を高めることを、ここのところ重視している。

個人と、小さなでっかいもの

多くの人々にとって、地域社会は、自分のすぐ外にある、最も身近で最も小さなでっかいものである。自分自身を中心に社会の構造を簡略的に考えた際、いくつもの円が小→大と重なっていく。その中で一番近くて小さな円に、多くの人がそれぞれの地域で参画することで、世界中に散らばる無数の小さな円の内側で循環を生み、そして密度は高くなる

東京23区で言えば、区があって都があって国がある。先日、大阪の都構想が議論に上がっていたのを遠くから見ていても、多くの方々が自分の属する直近の地域社会との繋がりをあらためて意識しているのを感じた。

私が今住んでいるブルックリンでも、同じようにいくつもの大小の円がある。その中で、私は自分が住んでいる地区にとって最も近いコミュニティで参加可能なことを探す。小さなことばかりだけれど、求めるのは手応え

具体的には、たとえば少し前にインスタグラムに投稿した不用エコバッグを地域で共有するプログラムに、私も家にあったものを寄付をした。

North Brooklyn Neighbors という、ブルックリンの中でも北西に位置するウィリアムズバーグとグリーンポイントのコミュニティで活動する団体がある。ピンポイントに私が住む地域だ。この団体が、今年3月にニューヨーク州でレジ袋が廃止されるのにあたって、”North Brooklyn Bag Swap” のプログラムを通して市民から不用エコバッグを回収し、エコバッグを持たない人たちに届けてくれた。レジ袋削減が前進することにより寄付した側にもプラスとなって返ってくる。小さな社会の中で、循環を生む

食品から出る生ゴミのコンポスティングにおいても、地域の一部となる方法をとっている。

composting mc

インスタグラムのDMなどで時々、「自宅でコンポスティングしないのですか?」といったメッセージをいただく。私の住むアパートは狭い上に庭やベランダもなく、堆肥を作ったとしても正直なところ使い道がほとんどない。共同の裏庭の土に足すことはできるかな?とも思うけれど、せっかくならもっと有効的に活用される方がいいのではないかな。

なので私は毎週末、近所の公園で開催されるファーマーズマーケットでの生ゴミ回収に、我が家から「堆肥のもと」を持っていく。主催団体である GrowNYC回収食品ゴミの基準は植物性が中心であること、コンポストへの処理は地域内で行われること、そして堆肥は地域内のコミュニティガーデン、アーバンファーミング、公園、街路樹に活用され、また地域のコミュニティメンバーで共有されることなど、私が自分の食品ゴミを活用する上で現実的に納得のいく条件が揃っている。

そして、それは地域が活性化されることで私にも返ってくる。やはりここにも循環がある

そのほかにも、週末に徒歩1時間ほどの圏内でストリートのゴミ拾いに夫婦で参加したり、地域の路上猫の保護活動にも、時間を見つけては加わっている。

そこで作り上げられるコミュニティ、そこで出会う仲間たち。意見を交換し合いながら、みなで自分たちの住む場所をよくしていくことは素晴らしい。それだけでなく、個人では容易ではない、地域内で助けが必要な存在に差し伸べる手が可視化する。

あ、もう一つ、コンポスティングがらみで。私の住む地域からは少し離れるけれど、南ブルックリンにある非営利団体 Red Hook Community Urban Farm を最近知り、感銘を受けた。彼らは、地域で回収した食品ゴミから極力自分たちの手でコンポストを作り、そして施設は全て再生エネルギーで運営されている。化石燃料を使っていないコンポスト施設としてアメリカ最大だそうだ。作られた堆肥は地域内の学校、コミュニティーガーデン、アーバンファーミング施設に無償で提供している。

代表者はショートドキュメンタリーの中で、堆肥できない素材が混入していても、機械でそれを分けるのには限界があるので、多くの処理を手で行うと話している。そしてこの営みを地域にもっと知ってもらうことで、食品ゴミそのものを減らし、コンポストに出す食品ゴミをしっかり分別することの大切さを理解してもらい、地域内で循環することでゴミはゴミではなくなることを伝えている。

こういった非営利の地域団体には、地域政府から援助を受けているケースが多くある。地域の税金が活用される中、その効果を拡充できる。

気づきの感度を高める

地域社会への参加・貢献が進めば進むほど、理想論で言えば、多くの地域がサステナブルでエシカルな社会に発展していくことになる。しかし、それはやはりあくまで理想論に過ぎないというもやもやが残る。

私が住む地域は、一般的に「恵まれた」「豊かな」人々が多く存在するからこそ、営みや循環は発展しやすい。

自分の目で見る範囲内で、どこのどんな住宅に暮らすか、なにを食べるか、どんな服を着るか、どこの大学を出たか、なんの仕事をしているか、どの医師に治療を受けるか、どこに旅行に行くか etc. そういった基準で「恵まれた」「豊かな」度合いを測っている。私たち夫婦は、決してめちゃくちゃ豊かではないと思っているけれど、それは上を見たら感じる話だよね。

住む家があるか、食料へのアクセスがあるか、身を守る衣服があるか、教育を受けられるか、仕事があるか、医療を受けられるか、余暇を楽しむ概念があるか etc. そういった考え方が大部分を占める地域が、自分の目では直接見えない世界のどこかに、数多く存在していることも忘れてはいけない。

小さな社会では見えることを、でっかい世界でも気づく必要がある

やはり残る、課題

うん、私、でっかい世界でのことに気づいているよ。さてでは、一体なにをする?

まだこのエリアで、私が一般市民として効果的に作用できることは、かなり濃い目のもやもやに包まれたままだ。寄付や署名はその一つではあるけれど、構造的な改革にはやはりもっと大きなエネルギーが要る。冒頭から触れているサステナブルでエシカルな選択や行動も、苦しめられる何かを自分が利用することの回避に過ぎず、直接的な救いや改善になっている可能性はまだまだ低い。非倫理的な仕組みの法規制、動物解放、新しい社会プログラムの構築など、政治やビジネスの構造に少しでも関われることで自分に可能なものはなにか、探している。

模索している中で、強く認識するようにしているのは、「私は消費者(なだけ)ではなく、生活者であり、市民である」ということ。消費者として考えると、ついつい目先のモノやサービスを通してサステナビリティなどをとらえがちになる上に、自分の手元に何かが届いたところを始点、どこにどう捨てるかという議論を終点にし、それにばかりフォーカスしやすくなる気がする。だって、それが「消費」であり、「消費者」が持つ大きな役割だからだ。

それにともない、脱プラ、パッケージフリー、リサイクル可能 etc. がサステナブルでエシカルなことのさながら代名詞になっている。それがひいては、需要と供給どちらにおいても、まるで xx の一つ覚え(ちょっと言い過ぎかもだけど)のような、それならいいんかい!?というあぶなっかしい状態を生む。このあたりでもじもじ停滞してしまわないよう、消費者としてに限らず、生活者・市民という視点を持つことで、私たちが持つパワーともっとでっかいものとのつながりを認識しやすくなる。そもそも偏った目線(たとえば、サステナビリティ=環境問題=廃棄問題)で問題解決を考え、多くの重要なものを置き去りにしている現象も増えている気がするので、それもそろそろ終わりにしないといけないよね。

脱プラ製品を買うのは意味があるし続けたい。でも、それ(だけ)でいいの?と問い、さらにもっと意義のあることを探すきっかけづくりになっていって欲しい。そして、小さな円に加わりながら攻撃力を高めることを始め、ひいては大きな円に与えられる影響にも少しずつ取り組む(←今私はここ)ようになっていく。これ、もやもやしながらも、私は結構健全な経路の進み方だと思うんだけど、どうかなぁ。

終わりなきもやもや

個人 vs. でっかいもの、自己満足、個人の思い、気づきと意識、攻撃力、小さなでっかいもの、、、(もやもや)。

実は私がこの記事を書いているのは、2020年アメリカ大統領選挙のまっただ中だ。投票前日の11月2日に書き始め、開票が進められている11月4日に仕上げている。アメリカ市民ではないため私には投票権はないが、自分が生きる社会のでっかい円であるアメリカ合衆国、その先にあるさらにでっかい円である世界、そしてそのまた先にあるでーっかい球体の地球にまで影響する選挙。同時に、各州の大事なことを決める投票でもある。気持ちが落ち着かないのは当然だ。

見よう、知ろう、考えようとすればするほど、もやもやは濃くなっていく。倫理観というものはただえさえ個人間で異なる上に、それだけでは語れない、科学や政治などの視点も尊重・維持しながら、一つ一つの問題に最適な解決策を見出していく必要がある。

もやもやはきっと、私が生きている間に晴れることはない。もやもやがそこにある限り、私たちにはできることがもっとあるということでもある。どんどん会話を続けていきたい。

Share on twitter
Share on facebook
Share on linkedin