私は昔から、自分はとても強い人間だと思っている。といっても、腕立てが無限にできるとか、重い米袋をかかえて持ち帰れるとか、そういう強さではない。メンタル的に、だ。
「図太い」「あっけらかんとしている」「寝たら忘れる」「泣いてすっきりする」どれも、自分には当てはまる。そうやって生きてきた。
特別誰かにヒントをもらったわけでもなく、そしてメンタルヘルスという言葉を知るよりずっと前から、私はある目線で自分のストレスをコントロールし、平安を保ってきた。
ストレスを感じ始めると、私はそれを「損得勘定」で処理する。どういうことかというと、悩みや問題ごとがある際に、それらがストレスと認識される領域まで発展しそうなあたりで、「この思考を続けることで得られるものと、意識することで成長してしまうストレス —— どっちが自分にとって得/損か?」と、ほぼ無意識に近い状態で勘定する 。そして、「得にはならなくとも、とにかく損にだけはしてならぬ!」とばかり、意識を核心から逸らし、「寝て忘れる」「泣いてすっきりする」あたりをまずは試して、処理をする。ぜいたくは言わない —— ゼロに保てればよし、だ。
思い返せば私の損得勘定は、10代前半に始まった。私は経済的に裕福な家庭で育ち、欲しいものは手に入り、やりたいことはかなえてもらった。家族みな健康でもある。一言でいえば、恵まれていた。しかし家庭の中で、いくつかの大きな混乱も経験し、それなりに悩んだり思い詰めたりもした。自分も家庭の一部なのに、どこか傍観者のような立場でそれを眺めていた記憶もある。まぁ現に、10代の自分にできることは限られていたので、目の前で起きていることをそのまま受け止める感覚が強かったのかもしれない。
そうやって受容するものが増え、「おっと、溢れそうだな」「これはストレスになってくるな」となるあたりで、得意の損得勘定が入る。そして受け止めるネガティビティが増長するのを避けるべく、ほかに気を散らす。
これが始まったのは中学生の頃だったので、思春期ならではの色も濃かった。「これ以上悩んだら、暗くなって友達と仲良くできなくなる」「これ以上思い詰めたら、勉強がはかどらなくなる」「これ以上ストレスを溜めたら、ニキビが悪化する」など、実に安直な損得勘定が実際のところだった。
この損得勘定は、私の頭にも心にも体にも、いつの間にか染み付いていく。高校・大学を卒業し、働くようになり、いくつかの恋愛をして、渡米し、勉強し直して、結婚して、ニューヨークで就職して、準管理職になり、仕事を辞めて・・・さまざまな段階で、生まれそうなストレスの存在を察知するたびに損得勘定してきた。その処理には、「寝て忘れる」「泣いてすっきりする」だけでなく、ほかにもたくさん方法を見つけた。「美味しいものを食べる」「買い物をする」「本・映画・音楽を楽しむ」「友達と遊ぶ」「美術館に行く」「旅に出る」—— たくさんのもので、自分の気持ちを散乱させ、自分にとって損が得を超えることはないようコントロールする。
それが、だ。ここ最近になって処理がうまくできなくなってきたのだ。寝ても忘れないし、泣いてもすっきりしない。美味しいものも買い物も、本・映画・音楽も、私を昔のようには助けてはくれない。おまけに、友達と遊んだり、美術館に行ったり、旅に出ることは、今とてもむずかしい。どうも気分が上向きではなく、不安や焦りや混乱を持つ時間が続いている。
これは私にとってはとても珍しいこと。それでも、基本的に図太い私は、崩れ落ちるようなことはない。「損したくないのに!」という気持ちは強く、分析してみようとする。
私がおこなってきた、損得勘定をベースにし、損が得を超える前にわちゃちゃちゃっとストレスを掻き消す行為は、付け焼き刃だったことに気づく。付け焼き刃のわりにはよくもこんなに長くうまく機能してきたものだ、と手前味噌にも自分の器用さに感心はするけれど、本質的に無理があったのだろう。
そうだ、「本質的に」という肝心のポイントが欠如していたのだ。ストレスが自分にもたらす損の可能性にばかり気をとられ、ストレスの根源である悩みや問題ごとそのものとは実はしっかり向き合えていなかった。そこには、自分を社会的尺度で相対的にとらえてしまうばかり、自分自身を絶対的に見つめることを忘れてしまったことも関係しているように思う。
先述の通り、私は小さい頃から、社会的にみて恵まれていた。今も恵まれている。特にここ数年、サステナビリティや社会正義などが自分の頭の中を占めるようになってからは、自分がいかに恵まれているかは浮き彫りになる一方だ。しかし、相対的に恵まれている事実で、自分が内側に持つ不安や焦りや混乱までもかき消すのは、危険でもある。
昨年末、「大人2人で泣きじゃくった、聖なる夜」という文章を書いた。そこでは、2020年の1年はいかに「人の痛みを理解しようとすること」を考えた年であったか、そしてそれを振り返る中で溢れ出た感情を記した。
ここに、私の胸がつかえていた理由がやんわりと残っている。
「とはいえ私は恵まれているから…。」は、自分の核心を無視する意味でも、下を見て持つ感覚という視点からも、残酷さがある。
「大人2人で泣きじゃくった、聖なる夜」
THE LITTLE WHIM
COVID-19 は、私の生活を大きく制限し、不安と恐怖を与えた。しかし、命を落としたり家族や大事な人を失ったり、職や住宅や生活基盤に影響を及ぼしたりと、もっと大きな苦難を経験した人々のことを知ると、自分の苦痛などたかが知れている。BLM や アジア系人種へのヘイトクライムが報道される中、自分自身がアメリカ社会でマイノリティとして経験した古傷はうずいた。でも、社会的・構造的にずっと長く大きく、場合によっては交差する抑圧を受けている存在のことを考えると、自分の痛みは所詮かすり傷に過ぎないと思い知る。
くわえて、ここ数年提案されてきたメンタルヘルス、セルフケア、セルフラブといったコンセプトは、2020年にもっともっと言われるようになった。目にしたり耳にする機会が増えれば増えるほど、小手先の損得勘定で自分を保てる図太い私はどれだけラッキーなのか、とも思うようになった。
こう思ってしまうこと自体、昨年末の私が書いた通り、とても残酷なことだと今は感じる。まず、自分の持つ不安や焦りや混乱を、ほかのものと比較して軽くとらえようとする妙なバランス感覚。さらには、その比べる対象というのは事実上、自分の上ではなく下を見るから存在するものであるという現実。恵まれている自分にどこか引け目を感じるゆえ、自分自身のことを思うのはダサいことと認識している上に、そもそもそれはさまざまな格差がある事実の表れなのだ…。何重にも残酷だな。
「とはいえ私は恵まれているから…。」この感覚を軸に、2020年、さまざまな事象と向き合ってきた。かつての傍観者の感覚も、そこにはあった気がする。それがどうやら、特に2020年という激動の年を経験する内に、限界に達してしまったようだ。
これは、私は自分自身のためになにかをすることが苦手なのだろう、という気づきにも発展した。たとえば、私はヴィーガニズムを選択したが、それは地球・動物・人の持続可能な形を考えた上でのことだ。もし自身の健康管理が最大の目的だったとしたら、続いていないと思う。食べたいものを食べたいし、誘惑に負け、甘えが生まれる。どうも意志が弱くなり、「今日はいっか」が少しずつ増えていったのではないかと想像する。自分のためって、むずかしい。
セルフケアは、セルフ(自己)をケアすることなのだ、という基本のきから、私は始める必要がある。ストレスを軽減することも大切だが、ストレスの根源は自己や自己の思考により近いところに存在しているはずで、それと自分自身をもって向き合わなくてはいけないのだろう。
社会的尺度も、相対的評価もない。そういった状態で、小手先の損得勘定ではなく、じっくりと自分自身の声を聞き、自分自身の気持ちの揺れと対峙する。一切してこなかった私は、まだまだこれが得意ではない。
ついつい怠ってしまったり忘れてしまいがちなので、自分自身と向き合うことを習慣づけするべく、毎日の中で意識的にセルフケアする時間を持つことから始めた。
たとえば、ソーシャルメディアやニュースサイトから離れることは、相対的で客観的な概念から自分を解き放ち、主体的に考える時間をもたらす。走り書き程度でも毎日のことをノートに書き残すことで、自宅中心で単調に続くように感じる自分の毎日には言葉にできるなにかがちゃんとあり、毎日少しずつ違う自分を確認できる。夫とパズルやボードゲームをすると、架空の小さなゴールを目指し達成する気持ちの高揚を得る。
これらは、損得勘定でいえば、損を減らす行動ではない。どちらかといえば、ストレスがあることを受け入れつつ、得となるものを増やす意識にフォーカスしている。それはとても大きな変化で、意義深い前進。ぜいたくは言わない —— ゼロに保てればよし、と思っていた私にとっては、とっておきのラグジュアリーだ。
そして、先日お友達の Natsuko さんとインスタライブをした際に、彼女からおしえてもらったポイントもすごく大事だと思っている。
「メンタルヘルスも、体の健康と同じで、健康な時からケアしないといけないからね。」・・・自分が不調を感じ始めてからセルフケアを始めたのもあって、これはものすごく納得。治療より、予防が大事なんだ。
苦しんでいる人々の声、社会的歪みに加担していることへの反省、環境破壊を目の前にし感じるエコギルト… 私たちの社会のそこかしこには、痛みが散らばっている。そして、自分のものではない痛みも理解しないと解決に導けない、大きく複雑な構造の中で生きている。
なので、「とはいえ私は恵まれているから…。」は、おそらく間違いない。しかし、恵まれている人々にも、痛みがないわけではないのだ。そういう人たちのひとりであっても、自分で自分のケアをすることをしっかり覚え、習慣にすることの重要性は理解できた。そしてそれが可能であることが、またしても、いかに恵まれているかということも。それでも、自分で自分におぎなえるラグジュアリーには、引け目を感じず取り組んでいこうと思っている。
きっと多くの人々がすでに気づいて実践していること、私は最近、やっと始めることができたようだ。
そして・・・最後になったけれど —— みなさんは、お元気ですか?