ミニマリズムとマキシマリズム — 持続可能なおうちを考えたら、less も more も more だと思った話

2年以上前に投稿したこちらの記事。

今読み返すと(自分の書いたどんな記事もそうであるように)議論の曖昧さや甘さがあって書き直したくなるのだけれど、まぁ全体的に私が主張していることは、サステナビリティとミニマリズムには似たような要素が見られるけれど、本質的な部分で異なるし、工程やアウトカム(工程を経た結果)も違ってくる、ということ。

個人的に、自分の生活、とくにおうちのなかにそれを反射させて考えたら、それはまさしく納得がいくことだった。サステナブル、エシカル、エコフレンドリー、古いものを大切に、長く使う、などなどを意識すると “less is more” なミニマリズムには賛同するのだけれど、実際に私のおうちづくりの工程もアウトカム(工程の結果)も、ミニマリストのそれとは程遠いものになっていくのだよなぁ。

一人の生活者として暮らすなかで

私は、ローカルに働き、ローカルなちいさな活動に時間と労力と知恵を提供しつつ、パートナーと猫と暮らす一人の生活者。昨年末に引っ越したのもあり、じっくり時間をかけながら、私とパートナーは持続可能な形で自分たちのおうちを整えている。

そのなかでぶち当たる現実… サステナブル、エシカル、エコフレンドリー、古いものを大切に、長く使う、などといったワードやフレーズが示す広い範囲と、自分のおうちの狭い空間のなかでできることの差異。あらゆる側面をかんがみると、いち生活者に実現可能ではないことが多いし、ましてや生活のなかで体現することなどとてもできない。100%正解の選択肢というのはないし、もっとパーソナルなレベルでの現実的な解釈が、市井の人びとには個々に必要なんじゃないかな。

私の場合は、THE LITTLE WHIM のタグライン的なものになっているこれ… 「好きなものを好き」でいながら、「循環の一部になる」を意識して生きること… を軸にしている(やんわりしていますが)。

そうやって、「好きだな」と思うもののほとんどを、ヴィンテージや中古品、お下がりで揃えている。たとえば…

ボードゲームやパズルをするのにいいな、と、近くのヴィンテージショップで買ったテーブル

ChessTable

すこし奮発して購入した、デンマークやアメリカのミッドセンチュリー古家具

Lanoba1
ParlorWallUnit1

パートナーの実家で眠っていたところに手を加えた鏡

mirror

ローカル運営の、犬や猫などのシェルター支援チャリティのスリフトショップで手に入れたアート

BR1

ぐんぐん成長中、閉店した近所の飲食店から譲り受けた植木

monstera

表紙が好きなアーティスト Edward Gorey だったので拾ってきて額に入れた、捨てられていた週刊誌

Gory

アメリカの Mercari を通して買った鏡

mirror2

玄関でこまごましたものの整理に大活躍している、道端で捨てられていたのをもらってきたキャビネット

RedDrawerCabinet5

(同時に、引っ越しにつき手放すことになった大きめの家具は、前の物件の購入者が気に入って買い取ってくれた。)

きっとインテリアデザインのプロフェッショナルの目から見たら、すっちゃかめっちゃか。文化やアートの専門家の目から見ても、ぐっちゃぐちゃ。けれども私たちにとっては、自分たちが生活する空間をつくり機能させるうえで、社会的にも個人的にももっとも持続可能な方法をとりながら集めたものの数々に囲まれながら、私たちは暮らしている。

マキシマリズム (Maximalism) とは

すっちゃかめっちゃかでぐっちゃぐちゃなおうちを、どうしたらすこしでもおしゃれにできるかしらん?インテリアデザインのメディアにヒントを求めたら、マキシマリストのスタイルが多く取り上げられているのを目にした。

マキシマリズム… そのまま訳すと「最大主義」となり、その言葉のとおり、最大限、もしくは過剰なほどにモノを使って表現をすること。ミニマリズムのモットーが “less is more” であるのに対し、マキシマリズムのそれは “more is more” となる。そんなイコールは言わずもがななのだけれども、それはミニマリズムとの対比を際立たせるためなのかもしれない。

あからさまに “more is more” というからには物欲至上主義の破壊的な印象も与える。しかし、マキシマリズムでは、量産された新しいものを避け、ヴィンテージや中古品などすでにあるものや古いものから自分らしさを表現する場合もとても多い。反消費主義や倫理をかんがみると、(むやみやたらにモノを排除したり、新しいモノを買い揃えながら美観を整えるような一部のミニマリズムに比べたら)サステナブルであるという論説もある。これは必ずしもどっちの方がサステナブル、と言える領域ではなく、ミニマリズムとマキシマリズムどちらにおいても、個々人の意識と裁量がどう作用するかが影響するだろう。

マキシマリズムは、ファッションなどにも通ずるのだけれど、ここではおうちのことに絞って進めると、さまざまなインテリアデザインのプラットフォームでは、マキシマリズムのスタイル傾向が論じられているのを目にする。総じて象徴的なのは、色と模様と形とテクスチャーで思いっきり遊びがあるところ。そしてそこにはルールがあるわけではなく、個々人の好きなように、表現として最大化するところ。

だけれども、私がここで話したいのは、メディアで取り上げられるようなおしゃれな人たちのおうちのことでも、そのスタイル傾向でもない。そうではなく、less と more、両局にあるそれぞれの考え、私のなかでどちらも咀嚼できてしまうのはどういうことだろう、ということ。

そこには、文化と装飾について、考えるステップがあった。

ミニマリズムの背景にある排除的な歪み

冒頭で紹介した、サステナビリティとミニマリズムに関する記事で以前記したことにくわえ、すこし前に友人におしえてもらったことがヒントになり、ミニマリズムのバイアスについてさらに考えるようになった。

これには、ミニマリズムとマキシマリズムが今の社会のなかで語られる形になるまでの道すじについて考える必要がある。

友人がおしえてくれたのは、アドルフ・ロース (Adolf Loos) という、モダニズムを牽引し、近代的な生活スタイルの枠組みを作ったとされる20世紀初頭のオーストリア人建築家が残した教え(とその危険さ)。アドルフ・ロース は自著 “Ornament and Crime” のなかで、生活において有用的なものにおける装飾は「不道徳」とし、その無用性を説いた。これの影響は、建物デザインやインテリアデザインだけにとどまらず、身につけるものやタトゥーなど、さまざまな範囲に及ぶ。

すこし調べていたら、アドルフ・ロースについて書かれている The New Yorker の記事 を見つけたので、一部抜粋したい。

“The evolution of culture is synonymous with the removal of ornament from utilitarian objects,” Loos said. He connected the impulse toward ornament with uncontrolled eroticism, criminal activity, and peasantry—an allover retroversion, the ignorance of progressive social norms. 

「文化の進化は、実用品から装飾を取り除くことと同義である」とロースは言った。彼は、装飾への衝動を、無秩序なエロティシズム、犯罪活動、農民階級と結びつけ、進歩的な社会規範を無視した全面的な逆行と位置付けたのだ。

引用元: The New Yorker 
日本語訳: THE LITTLE WHIM

モダニズム発展における彼の功績は一般的に評価されているけれども、非常に白人主義のユーロセントリックな考えを持っていたともされる。さらには、タトゥーの装飾を持つ人びと(人種や文化背景などでプロファイル)には犯罪者が多いなどといった優生思想的な論議すら進めていた、と批判されていることを知った。(全体的に危険な言説が多い印象だけれど、華美な建築装飾を製作する過程で多くの傷害・死亡事故が起きたことを論点に持論を進めてもいるよう… 特に封建制において華美なアートで権力を示したことを議論するうえでは納得する要素もないことはない…。私はちなみにこの本を読んではいない。)

多くの国・民族・人種の長い文化形成において、装飾はそれぞれのコミュニティで象徴的な役割を持ち、継承され、発展してきた。それらを「不道徳」と一掃することは間違いなく不適切だし、排除することが以降の文化の進化につながるという考えは、それまでの文化継承を否定しているようで、つじつまが合わないような。数々の異なる文化ではなく、特定の誰かだけの(ための)文化について話しているんでしょうかね?といった感じ。

考えるのを助けてくれた興味深い記事をほかにもいくつか…
The New Maximalism” (Vox)
Art Movement 101: Why Minimalism is the Worst” (Her Campus)
Is Minimalism for Black People?” (Pacific Standard)

彼自身が、社会的・政治的に排除的な人だったのかは私は知らない。というか、よく知らないゆえ、モダニズムの技術と、有意性=デザインの美という観点を、猛烈に追求するうえで(重要なことを置き去りにしながら)出てきた論説なのかもしれないという可能性を否定できる立場に私はいない。そしてそれは、今ミニマリズムを支持する人びとにおいても同様で、1世紀前のアドルフ・ロースにも彼の論説にも触れる機会はなく、ここで見られるミニマリズムがソシオエコノミックなレベルにまで引き起こす歪みを感知することもなく、ミニマリズムのフィロソフィや美意識を求めているケースはたくさんあるだろう。

それでも、アドルフ・ロースには、及ぼした影響を省みる必要と、説明責任があったと思う。しかし、ミニマリズムを求める現代の人びとに、その趣向に説明責任を負う必要があるかと問われたらそれはむずかしいだろう。それは、先ほど述べた、「いち生活者に実現可能ではないことが多いし、ましてや生活のなかで体現することもできない」ことの表れだ。知らないこと、できないこと、たくさんある。

だから、もっともっとわかりやすい、現代生活においてプラクティカルな形でのミニマリズムが支持されているのは理解するし、それを否定する気持ちにはならない。

自分の文化背景要素と主観が異なることもあるわけで

とはいえ個人的に、アドルフ・ロースの論説が持つ排除的なバイアスについて考えた結果、「無駄のない」「クリーンな」「洗練された」「スマートな」といった枕詞を感じさせるミニマリズムには抵抗が生まれたのも事実(気づかない時もたくさんあるけれど)。

なにを必要とし、なにを無駄と判断するか
装飾があることは、クリーンでなく、洗練されていなく、スマートではないのか
そもそもそういった判断は客観的なもので、主観はどこにいったのだ

さらに、だ。進化の名のもとに、生活におおきく反映される一定の文化や伝統の否定や排除はおろかとはいえ、そもそもの話なのだけれども、市井の人びとがみな、それぞれの背景にあるであろう文化を実際に理解し、愛でてきたわけでもないよなぁ、とも思うので、思考がこんがらがってしまう。

ことさら、私が身を置くアメリカでのミニマリズムの話となると、日本出身である私はものすごくモヤる場面に遭遇することがある。自分の国の文化がミニマリズムの真骨頂さながら引用される場面に多々出くわし、それは Zen だの Wabi-sabi だのとして商業的に出回り、もはやたくさんの手垢がついた状態になっている。個人的には、それが、私が知っている日本とは違う形で肥大化している。

日本出身の私、谷崎潤一郎の 「陰影礼讃」は、ニューヨークに引っ越してきて通っていた学校の授業で、”In Praise of Shadows” と題された英語訳で初めて読んだ。デザインの学校だったので、これは読んどくべき!図書として課題になったわけだけれども、多様なクラスのなかのほとんどの学生たちと同じように、私にとてもそれまで知らなかったものに新しく触れた経験だった。読後にエッセイを書くのはひと苦労だったし、この文芸に “Stunning!” “Beautiful!” と称賛を送る教授や学生たちから、日本人の私に暗黙に向けられた期待を裏切ったかもしれない。

というのも私は、幼少期はイギリスで過ごし、それ以降は東京のど真ん中の高層マンションで育った。いわゆる和室はなかった。知っている畳やふすまの姿がのび太くんやちびまる子ちゃんの家にあるものが限界の私には、谷崎が描く情景は想像がむずかしかった。おちゃらけた表現をするならば、私の今までの人生の Zen 度も Wabi-sabi 指数も極めて低い。イメージだけで語ってるでしょ!深くは知らないでしょ!的な Zen ファンで Wabi-sabi スノッブの非日本出身者/非日本人にアメリカで出会っても、ぶっちゃけ私もよく知らないので、ツッコみたくてもツッコめない事態におちいるほど。(もちろん、どこ出身の誰であれ、たとえその文化に関する知識や経験が限られていても、尊重したうえで愛することはできると思っている。)

そしてそもそも、日本の文化すべてがアメリカでイメージされる Zen で Wabi-sabi なわけでもない。古来の形や、近隣アジアやほかの国の文化の流れを受けたもの、そして現代カルチャーと、日本にはちっともミニマルではない文化はたくさんある。なんなら私は、ぎらぎらした渋谷の街並みや、あちこちに文字が並ぶスーパーマーケット、カラフルなセーラー戦士などこそが、(自分の育った)日本っぽいと思っている。

私にとっては距離が近いようで実際は遠い Zen や Wabi-sabi が、アメリカやヨーロッパでひろく受け入れられ賞賛されているからといって、その価値が私のなかで上がるわけでもない。しかしながら、Zen シック や Wabi-sabi スタイルを彷彿とさせるような原型が、日本では今も生活のいたるところで目にするかのように伝える日系メディアを目にすることもある。ぎらぎらした街並みやあちこちに並ぶ文字や色、いたるところで目にする漫画ベースのアートが圧倒的存在感を発揮していたと記憶する私の東京では、形骸化した Zen や Wabi-sabi ではなく本質的なそれらは、めちゃくちゃ探索しないと見つからない気がするけれども。西洋で認められたことを理由に、Zen や Wabi-sabi が急に推しになる感じ、不思議だな。

そうやって自分の文化背景もからめて考えると、違和感はしっかりしたものになる。その国や文化を背景に持つ人ですら必ずしも理解しているわけでもない、ある一定の文化のほんの一部が、はからずももてはやされ、価値が高いかのようになる。その一方では、ほかの国・民族・人種の文化(とそこから通ずるなにか)がイケてないとされる。そういった一方的で客観的な評価が、ミニマリズムという考えのもとで、たとえ二次的にでも行われてしまう可能性がある。

そうゆうの、私は好きじゃない。サステナビリティとミニマリズムの記事で書いたいくつかの疑問より、もっともっと腑に落ちない。モデルマイノリティみたいな話じゃないか、それ。

排除についてよく考える

そうして、私が持続可能なおうちづくりにおいて強く意識することとして、「好きなものを好き」でいながら、「循環の一部になる」にくわえて、もうひとつポイントができた。

それは、排除についてよく考えること。ここでいう排除とはたとえば、

  • この記事を通して触れてきた、特定の美観を求めることで一定の文化を一方的かつ客観的に評価することが生む排除
  • 以前の記事で書いた、一部の偏ったミニマリズムがもたらす、むやみやたらにモノを捨てる排除
  • 一般的に言われるサステナブルでエシカルでエコフレンドリーなことが、事実上インクルーシブではない現状が引き起こす排除

どの排除も、持続可能ではないのだ。

less も more も、more なんだ

ミニマリストのおうちや、その様がきれいに映し出されたビジュアルを見て、ミニマリズムのモットーである “less is more” を私も言えたらかっこいいなって思っていた時期もある。

だけれども、”more is more” も悪くない。だって、排除についてよく考えることが、もっともっと受け入れることにもつながっているのだから。ミニマリズムが、ビジュアルやスタイルの話だけではなくフィロソフィであるのと同じように、マキシマリズムにもそうやって向き合うことができる。

そして持続可能な “more is more” は、社会に対しても、自らができることに関しても、自分の表現においても、もっともっと求めるなにかがあることを今一度思い出させてくれる。

less は、追求し続けいつかゼロに(ほぼ近く)するというゴールがあると言えるだろう。それに対して、more は、すべてのものやことに宿る可能性を信じることなのかも。今目の前にあるなにかにも、未来に手に入れるなにかにも、誰かの手に渡るなにかにも、きっとその時どきの more の可能性があって、それはどんどん大きくしていくことができる。最大は更新されていく。

改善すべきことが多いのにどんどん複雑化していく今、”less is more” はたくさんの事柄にアプライできる。それと同時に、”more is more” という言わずもがななフレーズが示すのは、ゴールがないほどに「もっといい」の追求が私たちにはあり続けるってことかもしれない。

less と more のどちらもの視点から、それぞれの真髄はなんなのか、私たちは個々の範囲で理解を深めることがきっとできる。注意深く向き合いさえすれば、less も more も more なんだってとらえたら、未来を考える方法が増えたみたいで、なんかいいじゃんって思った。

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