このエッセイは、8月18日発行の NY ジャピオンの連載コラムに掲載予定だったけれど差し替えになった原稿を元に、書きました。コラムのテーマであったグラフィックノベル 「Shortcomings」の、著者 Adrian Tomine(エイドリアン・トミネ)にメールインタビューを依頼しており、間に合わなかった場合のバックアップとして8月頭に執筆していたものです。
媒体に許可をとり、大幅に加筆して、どえらくパーソナライズして、こちらで掲載することにしました。インタビューを含めた NY ジャピオンのコラム記事もぜひ、以下のリンクから読んでいただけるとうれしいです。
木を見て、森を見て、木として考えるコラム <第5回>
どこにでもいそうなアジア系米国人を描いた
グラフィックノベル、20年の時を経て映画化
テキスト版はこちら
ウェブ誌面版はこちら(私のコラムはページ10です)
「めんどさい」グラフィックノベル 「Shortcomings」
東京からニューヨークに移り住んで、今年で10年。自分にとって節目の年に、移住してすぐに読んだグラフィックノベルが、映画化された。日系アメリカ人作家の Adrian Tomine(エイドリアン・トミネ)による、 「Shortcomings」(日本語訳未発表)という作品だ。
この物語の舞台は、バークレー(カリフォルニア)と NYC。主人公の日系男性 Ben と、恋人の日系女性 Miko、友人の韓国系レズビアン女性 Alice — 3人のアジア系アメリカ人を中心に展開する。
生粋の冷笑気質にくわえ、アジア系の自分にコンプレックスを持ち白人女性とデートする願望を抱く、Ben のこじらせ。アジア系の文化と誇りを探求する、Miko のポリティクス。自身のセクシャリティを親に明かせないほど、保守的クリスチャンかつ移民として理想を押し付ける家族を持ち、一方で恋愛関係における自分自身の問題性も認識しているAlice のしがらみ。
どんな人たちか見える部分を、ちょっとだけ紹介。
Shortcomings | Adrain Tomine
白人女性 Sasha と出かけた Ben は、ほかのアジア系男性から自分たちに向けられた視線を感じる。アジア系男性たちの間では、白人女性とデートしていると送り合う「でかしたな!」的なサインがある、と話す。
Shortcomings | Adrain Tomine
アジア系アメリカ映画祭で、アジア系クリエイターによる、ちょっとわざとらしいほどのコミュニティエンパワメント映画に Ben は胡散臭さを覚え、それを映画祭のオーガナイザーだった Miko に話す。Miko は、あなたにとってアジア系であることは恥なの?と、呆れる。
Shortcomings | Adrain Tomine
同性愛者であることを親に打ち明けられない Alice は、Ben に恋人のフリをしてついて来てもらい、地元の教会に一緒に行く。しかし、戦争の記憶がある韓国系の彼女の家族に、Ben が日系であると明かすことにも躊躇する。そして Alice は、でも自分の家族にとっては性暴力者で略奪者の方が、同性愛者よりはマシだわな、とヤケになったジョークを飛ばす。
個々が自分と向き合うなかでうず巻く葛藤と矛盾、ぶつかり合いやすれ違い。描かれるそのどれも、すごく残酷に言うとすれば「めんどくさい」。けれども、「どこにでもいそうな」アジア系にとことん焦点を当てたこのお話は、ドラマティックではないのに、痛みを感じずに読むことはできない。
思い入れが強い作品の映画化って、ソワソワするよね
原作は2004年に発表され、2007年に単行本が刊行。そして初めて世に出てから20年近く経って映画化にこぎつけ、今月公開された。
予告編冒頭シーンの、Ben と Alice の会話
Ben: おれ高校時代ずっと、実質上唯一の非白人だったから。
Alice: で、一度も差別されたと感じたことなかったの?
Ben: そりゃあったよ。でもアジア系だからじゃない。
Alice: 原因は、あんたの生まれもった性格の悪さってわけか。
Ben: それな。
TLW 訳(会話のトーンを重視しました)
映画館に足を運ぶ前に、何度も読んできたこの本を、今一度開いた。だって、あまりに思い入れが強過ぎて、ものすごく楽しみなのと同時に、ソワソワしていたから。
映画版では、俳優それぞれがキャラクターに独自の魅力をくわえ、設定は時代に合わせ巧みにアップデートされ、シニカルな原作よりユーモアの色が強かった。そしてなにより、この作品がやっと映画化され今ふたたび集める注目からは、「ありふれた」「オーセンティックな」アジア系の「めんどくさい」ナラティブが、アメリカでいかに軽視されてきたかを、痛感した。
書籍の映画化=その作品の成功、というわけではないとは思う。しかし、本作が監督デビューとなった韓国系アメリカ人俳優の Randall Park(ランドール・パーク)は、2007年にこの作品を初めて読んで以来ずっと映画にしたかったけれど、チャンスに恵まれなかったことを、さまざまなインタビューで話している。
昨今、アメリカのエンターテインメント界でアジア系は人気を博し、リプレゼンテーション(表象)も以前よりは発展した。(良くも悪くも)メインストリーム化し、受賞する事例も増えた。 アジア系の理解とエンパワメントを意識し、ステレオタイプからの解放を目指すのは、コミュニティ内外どちらにとっても、大切なこと。エンターテインメントはアジア系に対する偏見をつくった功罪がある分、それを晴らす責任も大きい。
けれども、表層的というか、きらきらした側面がやたらもて囃されたり、ドラマティックな設定やストーリーばかり注目されても、現実との差は広がるばかり。「ありふれた」「オーセンティックな」アジア系の現実や日常には、向けられる偏見、差別やステレオタイプが存在する。それらが、Ben たちのように当人たちのなかで、不消化のまま内側に溜まっていき、凝り固まってしまうことだってある。ジェンダーやセクシュアリティなど、ほかの要素も相まって。
くわえて、「モデルマイノリティの神話」(アジア系はアメリカ社会にうまく順応し、「成功した」マイノリティとする画一的な考え方)がそもそも存在し、それが未だ根深い社会で生きていくのは、なおさら複雑だ。
「『誰といるか』のジャッジメント」が引き起こすアイデンティティクライシス
私自身、多様な街であるニューヨークに長く住めば自分のアイデンティティは確立するのかと思っていたけれど、学業、仕事、対人関係など多くを経験すればするほど、かえって生じる揺れに気づく。え、アイデンティティクライシスって、同じ場所に長くいても、歳を重ねても、あるんだ… と、ある時気づいた。
Ben たちの議論でも一つの大きなキーになる、アジア系女性である自分のパートナーが白人男性であることで向けられる偏見は、とくに堪える。何度か経験するうちに、ジャッジされてるかも?と、勘ぐるようにもなる。どちらであっても、それは気持ちを乱す。「誰といるか」でジャッジされ、まさかまさか… それが自分のアイデンティティにまで影響する(もしくはそう感じてしまう)のだ。
アジア系女性と白人男性のカップル
当人たちが経験することと、世間が当人たちをどう見るかを、曖昧に描き出すていねいさ
アジア系女性と白人男性のカップルが経験することと、世間が当人たちに対して持つ、偏見を含めた独特の視線。これらについて話すのは、簡単ではない。その「簡単ではなさ」を、「Shortcomings」は、おもに Ben の言動を通して露骨な表現をしながらも、核心の部分では曖昧さを残し、実にていねいに描き出していると私は思う。むしろ、その文学的曖昧さが、ていねいさなのだと思う。それは、どうしてか。
「好み」と「フェティシズム」の境目そのものとそれの議論において、ニュアンスがあることの理解、慎重な配慮が必要であるから。
カップルやパートナー関係にはさまざまな形態があり、一般的議論では成立するかもしれない内容も、パーソナルな会話では「他者の口出し」となる可能性は高く、そのそもそもの正当性はどんな文脈であれ問われるべきだから。
「人として好き」なのか、そこに人種やルーツという要素がいくばくかでも影響しているか否か*は、100%明確に、ましてや客観的になど、立証する方法はまずないから(絶対に立証しなきゃいけない義理なんてあったっけ、とも思うけれども)。
*「xx人種だから好き」「yy人だから好き」というあからさまなものは、考慮していない。ここで言っているのは: Aさんの人種、肌の色、文化的背景、言語などは、Aさんの人生において、社会的扱い、機会やアクセスなどに影響を与えており、それはAさんのアイデンティティ形成につながっているはず。なので、そのAさんをBさんは「人として好き」だと心から感じるとしても、そこにAさんの人種、肌の色、文化的背景、言語などが一切関係ないことをBさんが明らかにするのは、非常に困難だと思う、といったこと。
当人たちの存在は認識されていても続く偏見
簡単ではないはずのに、アジア系女性と白人男性のカップルに対して他者が思うもろもろは、カジュアルに話される。なお、個人的な経験では、これはアメリカでも起きるけれど、日本でもとても多いと感じる。そして、アメリカのアジア系コミュニティ内でも顕著であるさまは、「Shortcomings」でも描かれる。
関連記事:
Intermarriage in the U.S. 50 Years After Loving v. Virginia (Pew Research Center)
Kellie Chauvin and a History of Asian Women Being Judged for Whom They Marry (NBC News)
Stop Telling Asian Women Who to Date (StyleCaster)
But Sally, Wouldn’t You Want to Marry a White Guy? (Columbia Liberty Journal)
ちなみにアメリカでは、アジア系女性と他人種男性のカップル、なかでもアジア系女性と白人男性のカップルはたくさんいることが、数字で表れているようだ。
Pew Research Center が2017年に発表したアメリカのデータ。2014ー2015年の新しい結婚における、人種別・男女別での異人種間結婚の割合を示すグラフ。アジア系女性の36%は、ほかの人種・ジェンダーの組み合わせに比べ、もっとも数値が高い。そしてその傾向は、高学歴で都会の方が強いことも、同じ調査でわかっている。
同じく Pew Research Center が2017年に発表した、2014ー2015年の新しい結婚における人種別・男女別の異人種間結婚の組み合わせの割合を示すグラフ。アジア系と白人の組み合わせは全体の15%。アジア系女性と白人男性は11% で、その逆のパターンであるアジア系男性と白人女性の4%とくらべると、約3倍。(ちなみにアメリカの非白人人口はヒスパニックが多く、次いで黒人、そしてアジア系という順番になる。同時に、ミックスレイスは非常に増えている。)
Gallup News が2021年に行った調査では、アメリカの白人成人の93%と非白人成人の96%が、異人種間の結婚を認めると答えたことを、1969年からの時系列を合わせて示すグラフ。
ほぉ、やっぱりすごく珍しいことじゃなくて、しかもみんな別に気にしないと答えている。それなのに、どうして偏見を向けられ続けるのだろう。当人たちの実際の経験がわかる分析を探していたら、社会学研究をする友人がいくつか見つけてきてくれた。(でもその友人が調べた感じだと、あまり深く研究されている分野ではなさそう、という感想も。)私にどこまで理解できているかわからないけれど、まとめられているのを読むと解像度が上がる。
その内の一つ、ミネソタ大学 Christine Shirley Wu、2021年発表の博士論文、What’s Race Got to Do With It? Narratives of Asian Americans in Asian/White Interracial Relationships によると…
白人と結婚しているアジア系アメリカ人189人に聞いた結果、かれらが身近な人たちから受ける文化社会的なメッセージは、以下の3つに大きく分けられるそうだ。ざっとにはなるが、具体的な事例も書き出してみる。
民族・人種的誇りを推進する内容
- 家族やコミュニティが、文化が途切れる・変わってしまうと危惧する
- 家族やコミュニティが、子どもが生まれた場合、アジアルーツの言語を話さなくなることを残念がる
- 家族やコミュニティが、白人が家族に加わることで、自分たちの文化がホワイトウォッシュされることを嫌う
白人至上主義的、または人種差別的な内容
- 家族やコミュニティが、同じ人種・民族内のパートナーより白人を選ぶ方が幸せになれる、アメリカ社会に適合しやすい、と祝福する
- 家族やコミュニティが、アジア系男性に白人女性のパートナーがいるケースだと「成功」と見なし、ステイタスが高くなる
- パートナーの家族が、(英語の)発音について言及する、白人家系に他人種が混ざることを危惧する、アジアの文化はみな同じだと思っている
- 外出先で、じろじろ見られる、嘲笑を受ける、なかなかカップルだと認識されない
人種に重きを置かない内容 (上記2つに対し、とても協力的でポジティブなもの)
- 家族が、個人の特徴や幸福を重視し、人種に特別の重きを置かない
- コミュニティ内で、アジア系と白人のカップルは「普通のこと」と認識される
- リベラル、プログレッシブ、左寄り、寛容、柔軟な考え方、といった価値を共有している
そしてとくに、アジア系女性と白人男性の組み合わせの場合に多く抱かれる、偏ったイメージには、
- 子どもが生まれた場合、ミックスレイス (Wasian) であることの美化
- アジア系人種・民族とその伝統文化の裏切り
- 白人男性パートナーにはアジア系女性に対してフェティシズムがあるという決めつけ
- アジア系女性の目的は「白人化」、特権や社会的地位または市民権の獲得、という憶測
が目立つ。これらは、アジア系男性と白人女性の組み合わせより顕著ではないか、と指摘する参加者もいた。
何スプなんだろう、「他者スプ」?
どれもこれも、すごい既視感。ひとつ、個人の経験としての違いがあるとすれば…. こういったことは、私の場合は家族や身近な人たちというよりも、微妙な距離感の人たちから、「あなたたちの関係性の『実態』を自分は知っている」と示したいかのような形で言われることが多い。「あなたは気づいてないだろうけど」とばかりなそれ、何スプなんだろう。「他者スプ」?
「どうして白人男性を選んだの?」
(非白人が白人と近くにいることで、自分も優位に感じられる傾向があって…)
「あなたのパートナーって、いつもアジア系女性を選ぶの?」
(それってフェティシズムで…)
「その人はアジアの文化が好きなの?」
(傾倒しているとしたら、オリエンタリズムが…)(好きではないなら、それはあなたの文化の蔑視で…)
「アジア系女性と白人男性の関係って、 win-win だよね。」
(白人男性はアジア系女性を従順で支配しやすいと思う傾向があって、一方アジア系女性は白人男性が相手だと『大事にされてる』と感じるから…)
的なことを述べてくる。( )内の内容にまで及ばなくても、前後の文脈から、暗示する威力を持つ場合もある。
「そういう見解や議論があって、社会的・歴史的な視点からの論考や研究があることは、気づいてますよ」
… でも当人としては、他者が言わんとするその「実態」を客観的にはわかっていたとしても/わかっているからこそ、自分に関係性が高い社会的問題や歴史的事実は理解していたとしても/理解しているからこそ、自分だけでは簡単に変えられない、おおきくて一般的なことを、ぶしつけだったり出し抜けに、自分にとってとても身近で大切なことに投影されるのは、しんどい。そしてそれを、自分(とパートナー)しかいない場所に持ち帰るのは、しんどい。
ほかの状況に置き換えるとわかりやすいかもしれない… ある日本人に日本人のパートナーがいた場合。
それを知って、「どうして日本人を選んだの?」「あなたたちは、日本人(だけ)が好きなの?」と、当人にたずねるなんて、まず聞いたことない。
さして親しくもない間柄で、「特段の魅力や性的興奮を、日本人に対して(のみ)覚えるのだろう」という憶測を抱き当人に示唆するのは、一線を越えてますけど。
ましてや、「日本人を選ぶのは、もしかしてナショナリズムなんじゃないか」または「日本人がいいだなんて、どうかしてる」というトンデモなバイアスを当人にぶつけるなんぞ、ありえない。
究極的な対比かもしれないけれど、「誰かとその誰かの大切な人」について本人に発する言葉としては、同じくらいぶしつけで出し抜け。
* ここで書いた「日本人」は、日本にもっとも多い特徴を持ち、日本国籍所有や日本出身・在住などの、日本で大多数の日本人をイメージ
そして、「他者スプ」に多い傾向なのかな、xxイズムやyy主義、もしくはそれを暗示する言葉が発せられる。これらを個人的な会話で個人や個人の関係性に向けて他者がつかう際には、注意が必要だということも強調したい。たとえば、それぞれの概念の理解に双方で差異がないことを確認したうえで、相手の話にじっくり聞き入ったあとだったり、相談を受けそれに親身に応える場合など、お互いが準備できている状況なら、うまいつかい方が見えるんじゃないかな。元々とても親密な関係な場合も、大丈夫なケースは多そう。
当人たちは世間一般のためのサンプルではない
そのほかにも、まったく知らない人から、まるで当人たちを世間一般のためのサンプルとでも思っているかのような扱いを受けることもある。
これは稀有な体験だと思うけれど、かつて東京で、パートナーと歩いていたらいきなり、「すいません、国際カップルに話を聞いてるんですけど〜」(私たち: 無言)「あ、日本語わかりますか?」「いくつか質問していいですか?お似合いですねぇ、どうやって知り合ったんですか?」と、まくし立てるように聞かれたことがある。インタビュアー(?)に付き添っていた方は私たちにカメラを向けており、おそらく録画は始まっていた。
ユーチューバーだったのかインスタグラマーだったのかわからないけれど、私たちはいらつきを隠すことなく、答えるのを拒否した。本当に驚いた。私たちの場合は合っていたとはいえ、即座に「国際」「カップル」だと判断しそれを言及するのもすごい。ちなみに私たちは、手をつないでいたり腕を組んでいたわけではなかった。
内容の説明や目的の開示などがあり、事前に同意が得られている場合は、もちろん問題ない。
どうしてなくならないのかなぁ
古い、かつカナダ発になるのだけれど、数年前にこのトピックについてインターネット上をうろうろしていたときに見つけたエッセイが記憶に残っているので、紹介したい。
2015年に Vice に投稿された The Casual Racism I Deal with as an Asian Woman in an Interracial Relationship の筆者 Victoria Chan は、カナダのトロント在住で、中国にルーツを持ち、パートナーは白人男性。彼女は記事内で、カナダの社会学博士で異人種間カップルも研究テーマの一つとしている Katerina Deliovsky に、話を聞いている。
“‘We know very little about the actual challenges and joys that interracial coupling brings,’ she says. In fact, Deliovsky points out that the celebrated increase of interracial couples hides their complex experiences of discrimination, including how they deal with racism.”
「Deliovsky によると、異人種間カップルになることがもたらす実際の課題や喜びについては、ほとんど知られていないそうだ。彼女は、実のところ、異人種間カップルの数が増えていると認識されることで、実際にかれらが受ける差別やそれへの対処といった複雑な経験が、隠されてしまうと指摘する。」
TLW 訳
また、Deliovsky は先述の「モデルマイノリティの神話」の影響も考察する。
“Because of this, Asians often experience more implicit forms of racism hidden under the public veil of tolerance.”
「『モデルマイノリティの神話』のせいで世間が寛容になり、アジア系は、そのヴェールの下に隠された暗黙の人種差別をより経験する。」
TLW 訳(すこし手を加えました)
さらに、エッセイのなかで筆者本人は、自身が白人パートナーといることで経験したことから、以下のように考えるようになったと書いている。
“From my own experiences, I can say that being in an interracial relationship means you aren’t just opening yourself up to the person you’re dating, but for other people to judge you in a completely different way than if you weren’t a couple.”
「私自身の経験から言えるのは、異人種間の関係を持つことは、単にパートナーに自分自身を開示するだけでなく、他者に対しても、もしその人とカップルでなかった場合とはまったく異なる方法で評価される可能性も、もたらすということ。」
TLW 訳
カナダの話ではあるけれど、白人男性をパートナーに持つアジア系女性で、ニューヨークと同様に多様な都市であると想像するトロントにいる彼女の言葉を読むと、ここでも強い既視感を覚える。
(偏見と向き合うことを拒絶したいわけではない… むしろ変えたい)
と、他者からのジャッジメントについて書いてきたけれど、当人たちがそれに対して抱く反発は、必ずしも、アジア系女性と白人男性カップルに対してどうしても存在する偏見と向き合うことの拒絶というわけではないと思う。むしろ、さまざまな視点も持っていて、変えたいと願う人たちも多数いるはず。
社会的・歴史的要素の軽視とも限らないだろう。多くの当人たちには、じっくり考えたり、信頼できる誰かと話したり、書籍などから過去について学んだりほかの人のたちの考えを知ろうとする機会が、たとえいやでも、おとずれる場合が多いと察する。
上の写真内には自叙伝がいくつかあるが、これらを書いた著者たちのように、実際に複雑な気持ちを言葉にして発する方々も多い。
ただ、あまりにぶしつけだったり出し抜けな憶測、質問や「他者スプ」を少なからず受けることには、ひたすらうんざりする人たちもいるのだ。
無論、このあたりのことを、社会レベルでも個人レベルでも、あまり考えていない/意識していない当人たちもいる可能性を、否定しているわけではまったくない。ただ、もしそうだとしても、個人的なことに関して、当人の背景や経験を聞くことなく、他者が一般論の延長のような論調で質問したり意見することの正しさは、やはり問われるべきだと私は思う。
補足として… 「アジア系女性と白人男性のカップルの友達が、『気にしない』って言ってたけどなぁ」「友人たちは、そんな経験ないって言ってたよ」という場合。それは、その友人が気にしない、または経験したことがない方だったか、「気にしない」と言った一例に過ぎない。
アジア系男性
「報われなさ」から生まれる負のエネルギー
そして、アメリカのアジア系女性と白人男性カップルへの偏見と伴走することが多い、アジア系男性への偏見とそこから起きる問題についても。
そもそも私は先ほどから、この辺りのことに関する書籍などに積極的に触れてきたとはいえ、専門的な知識を特別に持つとはいえない立場で、当人として感じることが多いゆえに書いてきた。しかしアジア系男性に関しては、自分にはわかりえない部分がぐっと増えるので、それを自覚したうえで続ける。
たしかにアメリカでは、アジア系女性を「(好ましくない形で)持ち上げる」ステレオタイプが存在するのと反比例するかのように、アジア系男性には「(露骨に)ネガティブな」ステレオタイプがある。アジア系アイドルや俳優がいくら人気になっても、誰もが急にモテるようになるわけではないし。
関連記事 :
The Desexualization of the Asian American Male (CNN Style)
How America Tells Me and Other Asian American Men We’re not Attractive (The Seattle Times)
鬱屈が溜まり、負のエネルギーの矛先が、同じアメリカにいるアジア系女性(と、アジア系女性をパートナーとする白人男性)に向く現象は起きると聞く。
たとえば 「Shortcomings」の Ben は、それを臆することなく表に出すので、初めて読んだときはドン引きした。
関連記事:
When Asian Women Are Harassed for Marrying Non-Asian Men (The Cut)
When Asian Women Marry Outside of Their Culture, the Harshest Criticism They Face Sometimes Comes from Asian Men (KPCC-FM)
The Cut の記事には、筆者であり、中国系アメリカ人小説家で白人パートナーとミックスレイスの子を持つ小説家 Celeste Ng や、彼女に近い属性の方たちに向け、アジア系男性(と思われる方)たちが発したハラスメントや中傷などの暴力が詳細に書かれていることを、事前にお知らせします。
アジア系男性が、自身の「報われなさ」を理由に(というかどんな理由であれ)アジア系女性を攻撃するのは、まちがっている。周りの他者がそれに気づいた場合、エスカレートする前に止める協力をするのは、非常に重要である。
その際に、アジア系男性とアジア系女性の社会的扱いの違いはポイントになると思う。表面化した行ない、言葉や、表面化しそうな攻撃性を改める目的であれば、アジアの男性がアジアの女性を支配しようとする背景だったり、アジア系男性が自ら内在化しやすいアジア系差別や西洋主義など、アジア系男性にひもづく客観的かつ論理的内容を攻撃性の原因の可能性として提示しながら、他者が当人と対話をするのは、一つの有効的な方法になるはず。
それも「他者スプ」かもしれない
しかし、アジア系男性が抱えこむ「報われなさ」そのものに関して論じる際には、勝手は違うように思う。たとえば、アジア系女性と白人男性のカップルの項目で書いたように、「人として好き」に「人種やルーツが関係しているか」を他者が当人たちにせまることに異論を唱えるならば、アジア系男性各個人が抱えこむ「報われなさ」が、「アジア系男性だから」なのか、「人となり(個人特有のもの)」が理由なのかについても、ニュアンスがあることを理解し、他者が決めるべきではないんじゃないかな。
Shortcomings | Adrain Tomine
Ben が垂れ流し続ける偏見について、Alice の恋人で、博識が高い Meredith に問い詰められ、会話が個人的になるにつれ自衛に走る Ben。
また、その人が「アジア系男性」であるのみならず、「アメリカ人男性」や「アジアミックス男性」などである場合には、「アジア系男性」としてだけ論じると、他者によるアイデンティティの切り取りになってしまう。
(先ほど書いたことにさらに踏み込みつつ…)たとえば性格や経験など「個人特有」のものから、属性に起因する要素を完全に差し引くのは、おそらく不可能。racial constructivism(人種における構築主義)に関して読んでみると、なおのことそう感じる。
ちなみに私が自分の言葉で簡潔に書くとしたら、「人種における構築主義」の解釈は、人種は、歴史的な出来事や文化的な要因など、社会的な文脈によって意味付けられ構築されることを重視する(そして、人種の不平等や偏見に対処するためには、社会構造や文化を変える必要があるという)考え方。
といっても、conostructivism については、さまざまな本で出てくる断片をかき集めている段階で、深い理解がある状態ではまったくないです…。
人それぞれが持つ、社会によって意味づけられ構築される要素と、自身のそのほかの部分は、どう影響し合っているか…… すごく複雑なダイナミクスみたいなものがあるのだろうな……。それなのに、「アジア系男性にはこういう傾向があって… だからあなたは『報われない』と感じてて… 」と、「アジア系男性だから」にのみ注目したアプローチを他者が始めるのは、人格批判などを避けるための思いやりかもしれないけれど、実際には「人となり」の軽視にもなるかもしれない。
そういえば、冒頭の Ben と Alice の会話では、Ben はこんな感じだった。
Ben: おれ高校時代ずっと、実質上唯一の非白人だったから。
Alice: で、一度も差別されたと感じたことなかったの?
Ben: そりゃあったよ。でもアジア系だからじゃない。
Alice: 原因は、あんたの生まれもった性格の悪さってわけか。
Ben: それな。
Ben のこの考え方が「妥当」か「妥当ではない」かは、私にはわからない。
だとしても、アジア系男性にも、やたらめったら「アジア系男性だから」の「他者スプ」が個人的な会話で続くと、自分のなかにあるほかの大事なものが置き去りにされるような違和感、そして、それが積もり凝り固まっていくしんどさがある可能性は、考慮されるべきだろう。
だから、曖昧に。だから、ていねいに。
アジア系女性もアジア系男性も、こういった議論に辟易する傾向がある背景には、経験してきた理不尽がある。当人たちだってすぐに言語化はできないくらい、ニュアンスがあって複雑でしんどいことに、なぜか他者は、いろいろすっ飛ばして即時に判断し、言及していいことになっている理不尽。
「Shortcomings」が、架空の登場人物のキャラクター設定や描写を通してこの複雑なテーマを曖昧に描き出すそのていねいさからは、登場人物たちに近い人たちにもそうでない人たちにも、伝わるメッセージがあると思っている。これはひいては、もっと幅広く、さまざまな事象に当てはまるなにかにつながるかもしれない。作り話なんて意味ない?いや、フィクションだからこそできることって、ある。
私のなかの、Ben と Miko と Alice
と、分析できているように書きつつも、自分自身が当人である内容も含めこういうことを考えるのって、すんごく疲れるもの。自分のめんどくささに情けなくなったり、こんがらがってくるのをダサいと思ったり、してしまう。「あなたはそのままで素晴らしい」「自分らしくいるだけで君は強いんだ」みたいなアジア系エンパワメントのインスタグラム投稿を見ても、してしまう。
「Shortcomings」のタイトルは、「短所」「弱さ」を意味する。Ben を筆頭にこの物語の登場人物たちには、みな短所や弱さがある。でもってそれは、当たり前なこと。この本を知って10年経ち、そして映画も観て、今も私は、アンチヒーローなかれらのことを好きでも嫌いでもあるし、共感も反発も覚える。
「いやー Ben みたいにだけはなりたくないわ」「私は Miko に似た振る舞いや意思決定をするのに、実際は Ben みたいなとこもあるなぁ」「さっき私が言ったことって、まるで Alice ばりにバッドアスだわ、いろんな意味で」私のなかには、3人がうじゃうじゃしているように感じる時がある。
そして、そんなもんだよな、と思う。短所や弱さも含め自分自身を受け入れるプロセスやスピードは、個人によって様々。本やインターネットを開けば、いろんなことが書いてあるし。昨日と今日で考えてることが変わるくらい、日によって揺れ動くこともある。アジア系であること以外にも多様な社会的要素があるのだから、なおのこと。
その作業を、Ben、Miko や Alice のように私たちはずっとしてきたし、今も続けている。だから、「めんどくさい」。そうか、そうだよね… 自分の短所や弱さに嫌気がさすのも、矛盾が生じるのも、気持ちがぐちゃぐちゃになる時があるのも、当然のことなんだ。
NY ジャピオンでの著者インタビューで私は、「Shortcomings」のタイトルについても一つ質問をした。けれどずっと胸にある特定の疑問は避け、ぼんやりとしたものにした。だって、ずっと私が持ってきた疑問は、とても悲しいものだから。
「『Shortcomings』が Ben やその他登場人物の『短所、弱さ』を示すとした場合、かれらは自分たちが『アメリカでアジア系である』ことも、自分たちの『短所、弱さ』の一つだととらえている可能性は、考えられますか?」
こんな質問、悲し過ぎるよな。聞けなかったし、聞かなくてよかった。でも、そんな悲しいことを考えてしまうのって、アジア系に限らずほかの人種や、そのほかジェンダー/セクシュアルマイノリティや障害者など、周縁化されやすいいろんな社会的属性の方たちが、きっと経験あるのかな、と思った。
自分の短所、弱さや矛盾と向き合うこと
「Shortcomings」の3人に、私が共感も反発も持つのは、みな自分に正直だからかもしれない。自分に正直であればこそ、自分が短所、弱さや矛盾だと思う要素と向き合うことは、自分をもっと知り、ひいては自分を受け入れることに、きっとつながる。そうすると、世間が突きつけてくるおおきくて一般的なことにも、やっと自ら、対峙したり、よくするために闘えるように、きっとなる。(さながら優等生なインスタグラムみたいなことを、言っちゃう。)
2013年に初めて読んだ 「Shortcomings」と、2023年に映画館で観た 「Shortcomings」。何度も紙で読んできた「めんどくさい」物語がスクリーンに映し出され、「どこにでもいそうな」私たちのストーリーが目の前に広がり、胸を突いた痛みと喜びは、これからも私のなかできっと続く。
あぁ… 自分を知り受け入れる意味を思い出させてくれるこの作品がこの世にあって、そして10年越しで2回もそれと出会えて、わたしゃ本当によかったよ。
編集後記
編集後記は名ばかりで、本文に書き切れなかったことの書き足しです。
「アジア系」の記述、男女二元論・ヘテロノーマティビティと、固定的な結婚観をお許しください
このエッセイでも、NY ジャピオン掲載のコラムでも、「アジア系」(Asian または Asians) という記述を続け、そして男女二元論・ヘテロノーマティビティ(異性愛規範)と、固定的な結婚観を展開していることを、自覚している。
たとえば、日系アメリカ人の Ben と Miko や韓国系アメリカ人の Alice と、日本国籍所有でアメリカ永住者の私は、同じアジア系のアンブレラに入るけれど、厳密には違う。そして日本や韓国など東アジアにルーツがある人たちだけがアジア系なわけではないので、極めて限定的。
関連記事: What It Means to be Asian in America (Pew Research Center)
それは理解したうえで、「アメリカに住むアジア系である」という、そしてなかでも「東アジア系である」という点において、自分は近似性を持つことを重視して書いた。
また、全体を通して多面性に欠けるジェンダー・セクシュアリティと結婚観を貫く形になっているのも、題材と論点の重視によるもの。
どちらに関しても、ご理解とお許しをいただけますよう、お願いします。
ここ数週間の emotional rollercoaster
「『Shortcomings』、映画になるってよ」のニュースを知って、1年くらい。ずっと、楽しみなのにソワソワしてきた。8月4日の映画公開が迫るにつれてそれはどんどん高まるなか、改めて読み直したのに加えて、生まれて初めて、劇場に原作の書籍を持って行った。お守りみたいな感覚だったのかな。観終わった直後に、答え合わせ(?)でもしたかったのかな。
同じタイミングで、原作者 Adrian Tomine のグラフィックノベルをずっと発行してきたカナダの出版社 Drawn & Quaterly を介して著者に依頼したメールインタビューの返事を待っていたので、ソワソワはさらに育った。ライターとしての仕事と、ファン心。
さらに同時進行で、バックアップとしての記事(このエッセイの元となる原稿)も書き始めた。ニューヨークとその近郊にいるいろんな方々が読む日系コミュニティ紙のコラムなので、淡々と書くよう心がけよう… けれど、その「淡々」にたどり着くまでのプロセスは、どうしてもパーソナルでエモーショナル。それを抑えようとすればするほど、原稿は自分からどんどん離れていった気がする。
結局、自信が100%ではないまま仕上げたバックアップの方でいくことになり、入稿した…… らその直後に、Adrian からインタビューへの回答がなんと返ってきて。開いてみると、20年以上ともにしてきた3人のキャラクターについて、「彼らを好きになるのが難しい場合もあると察する一方で、私は全員に愛情を感じます。」と。数週の間、高まっては封じ込めてを続けた感情が、これを読んでとうとう崩壊。
編集者さんは、締め切り後なのに書き換えることを提案してくれて、大急ぎで書き直しを始めた MacBook の画面は、涙でよく見えなかった。
私のパートナーは、 「Shortcomings」への私のとてつもなく強い思い入れも、ダメ元で依頼したインタビューの回答が得られた計り知れないほどの喜びもわかっていて、「掲載記事の号が出たら、額に入れて飾ろうね!」なんて、もらい泣きかわかんないけど、瞳を潤ませながら言った。
ライターとして無名にもほどがあるし、コミュニケーションが得意ではない私にとって、Adrian が返事をくれたことは、まぎれもなく奇跡に近い出来事。私の質問への回答を考えるのに、映画公開で忙しいなか少しは時間を過ごしていたのね、と想像すると、ふわぁぁあってなる。
そして、自分の思いを抑えて書いた最初の原稿を、こうやってどえらくパーソナライズしながら書き直したことで、自分の考えを整理できたとともに、それはセラピーにもなった。
「Shortcomings」を私によく勧めたな、でもそのパートナーとの時間もまもなく10年に
「額のサイズは、何インチ × 何インチがいいかな?」と聞いてくる私のパートナー。実は、「Shortcomings」を10年前に私に勧めてきたのは、彼。さらにもっと前に読んでいたらしい。
この作品は、アジア系女性と関係を持つ非アジア系(てか白人)の男性にとっても、なかなか辛辣でしんどい部分があるはず。彼は、まさにそこに入る。でもってそれを、日本からアメリカに移住したばかりのアジア系女性パートナーの私に勧めたの、すごいなって今も思う。アメリカのオルタナティブコミックやグラフィックノベルに興味を持っていた私は、あらすじをざっとおしえてもらったうえで、自らの意志で読んだわけだけれども。そして結果私は夢中になったのだから、よかった。
今では、「Shortcomings」は共有していて(なぜか本棚には2冊ある)、お互い何度も読んできた。議論もしてきた。そのなかには、ケンカになるギリギリの線に触れそうなほど、アツいものもあった。
その彼と一緒に過ごす時間も、まもなく丸10年になる。
彼が10年前におしえてくれた、2人にとって永遠の課題図書のような存在である作品について原稿を書き、著者にインタビューし、その記事を切り取り、「やっぱり恥ずかしいよ」「なんで。I’m so proud of you!」なんて会話とともに額に入れて、ドリルで穴を開けた壁に、「ちょっと右に傾いてるかな」「これでどう?」とか言いながら、かけるんだろうな。
でもその前に、何年経っても続くこの諍い — 額のサイズをインチで測るかセンチで測るか……いっそのこと、寸を持ち出してみようか。まずはそこからだ。