THE LITTLE WHIM

私たちは、消費社会の犠牲者か共犯者か

生きている中で、選択肢は充分過ぎるほど溢れ、私は不自由なく欲しいものが手に入る。

都心で、経済的に恵まれた家庭で育った私は、思い返せば幼少期から、おもちゃ、絵本や好きなキャラクターのものなどをたくさん持っていた。物心ついてからも、まだ持っているものが使えても、ものすごく必要というよりはその時々の欲しいという気持ちのもと、色々買ってもらった。大学生になってアルバイトを始め自分のお給料も使うようになり、社会人になり、それからもずっとずっと、欲しいものを手に入れる環境は続いた。

私は紛れもなく、消費社会を生きてきた

ニューヨークに住んで7年、ここは資本主義の色が特別強く、お金の動きがまるで目に見えるよう。高いものも安いものも、ものすごく高いものもものすごく安いものも、たくさんある。2つめのビジネス関連の学位をパーソンズ美術大学で取得し、初めてアメリカで就職して税金を納めるようになり、この街で社会的に一人前になった実感を持つと、ちょっとしたシビレを感じた。私もこの社会で、稼ぎ、政府に納め、自分のために使うお金があることで、この大きな歯車の小さな一部になることに。

…しかしここ数年で、そうは思わなくなった。特に消費者として、お金を使う立場としての視点が大きく変わった。私のお金、何に変えたいか。私のお金、どこに行くのか。私のお金、どう使うべきか。何かを手に入れるための対価としてお金を払うという行為について、あーだこーだ考えるようになった。

サステナブルでエシカルなお金の使い方、そしてサーキュラーエコノミー(循環型経済)やドーナツ経済学について学びを進めていると、私たちが取り組むべき課題としてまず出てくるのは、大量生産・大量消費によって成り立つ今の消費経済の再構築である。

先ほどの振り返りを通して感じるのは、私が欲しがって手に入れたものには、大量に生産されたものが多くあること。そして私がしてきたのは、それを大量に消費する活動の一部だったということ。

それが当たり前だと思っていた。親のお金で暮らしていた時も、それ以降も。そもそもそれが、現代社会の現実的な基準において、ものすごく恵まれているという自覚もあまりないままに(親には、常に私をサポートしてもらい感謝している)。

大量生産・大量消費が問題視されるのにはいくつも理由がある。一般論として、この流れの中で利益を作りそれを増やしていく際の最悪のケースは・・・資源をまるで限りないもののように酷使する。あとのことを考えず自然に害を及ぼし環境を汚染する。人権をないがしろにし、生活・経済環境の保障もろくにない状態で労働力を搾取する。いらなくなったものはただひたすら廃棄する。それをものすごいスケールとスピードで繰り返していく。利益と一部の層の利便性・合理性を追求する仕組みがもたらしたダメージは、気候危機や人権侵害といった巨大な問題になっているのにも関わらず、まだ続いているどころか、そう簡単に終わる気配はない。

直面する問題を認識し、消費者としての自分の立場をどう考えるか。先述の「それが当たり前だと思っていた(だから仕方がない)」という考え方には、どこか自分は、従来(現行)のシステムに巻き込まれた犠牲者だととらえているよう。一方で、エコギルトなどと言われる自らの行いに誤りを認める罪悪感があるように、自分はこのシステムを助長した共犯者なのかとも考える。一体どっちなんだろう?

いくつかの事項を取り上げながら、今(まで)の消費経済の仕組みにおいて、私たちは犠牲者なのか共犯者なのか、考えたい。最後には、「犠牲者か共犯者か」と強い言葉を使ってはいるが、そもそも罪として考えるべきなのかどうか、私自身が着地させたい意識のあり方について記す。

陳腐化
計画的陳腐化

リニアエコノミー(直線型経済)からサーキュラーエコノミー(循環型経済)へのシフトを語る上で、必ずといっていいほど出てくるのが、計画的陳腐化 (planned obsolescence) である。日本の経済産業庁が発表した「循環経済ビジョン 2020」にも、排除していくべき要素として登場する。

計画的陳腐化は、意図的にプロダクトの寿命が短くなるよう製造するシステムのこと。諸説あると言われているが、この動きは電球業界から始まったとされている。長持ちする電球が市場に出回ると、買い替えが減り、新しい電球が売れない。ゆえに1920年代に、電球業界内で「1,000時間以上持つ電球は作らない」という協定 “Phoebus Cartel” が暗に結ばれたという説が有力なようだ。もし1,000時間を超える電球を販売した際は、業界内で罰金まであったとか。

計画的陳腐化の歴史と、Phoebus Cartel についてもっと詳しくは、NPR のポッドキャスト Planet Money の “Episode 902: The Phoebus Cartel” で語られている。

電球が持つ消耗品としての要素を業界内で故意に強め、長持ちしないように、すぐ壊れるように作られるようになった・・・なんという話!といった感じだが、この仕組みは現在も当然のように、そして至る所に存在している。例えばスマホ – 最新モデルを買っても、一定期間を過ぎると充電の持ちが悪くなってきたり、システムアップデートをすると不具合が生じるようになる現象を経験したことがある人は多いと思う。これがまさに、計画的陳腐化と言われている。built-in obsolescence とも呼ばれるように、陳腐化する(もし語弊があるようであれば、少なくとも「長持ちしない」)ことが組み込まれているのだ。スマホに限らす、パソコンやカメラ、家電なども同様だ。さらには、なんだか動きがおかしいと思っても部品交換や修理がしにくく、新品を買った方が話が早かったり、安かったりする。部品交換や修理より買い替えに促されやすい仕組みも、計画的陳腐化の一要素と言える。

これは、人が文明を作り出す営みを妨げているという意味でも、強い違和感が残る。「もっと長持ちする、エネルギー消費の少ない、地球や人に優しい光をもたらす電球を開発しよう」というポジティブな未来を目指す研究を進めるのではなく、利益のために「一定の時間であえて切れる電球を作ろう」をサポートしてしまった。

計画的陳腐化は、大量生産をベースにしていることから、すぐ壊れるようにデザインされているとはいえ価格は下がり、富裕層だけでなく中間・低所得・貧困層も様々なものに手が届きやすい状況を作った。また、製造業における雇用を増やした。そういった貢献(?)もあるとは言えるが、代償は大きい。

現状では一般的に出回っている商品の多くに計画的陳腐化はなんらかの形で潜んでいる可能性が高い。避けることは可能だが容易ではない。例えばスマホならば、Fariphone のように原料調達において環境・人権に配慮し、構造をシンプルにし、部品交換や修理を可能にし、廃棄を出さないビジネスモデルが登場している。しかしまだ一般的に手に入りやすい状態にまでは至っていない。

計画的陳腐化おいて
消費者は犠牲者か共犯者か?
どちらかといえば犠牲者である

心理的陳腐化

計画的陳腐化に加え、もう一つ陳腐化のコンセプトは存在する – 心理的陳腐化 (psychological obsolescence) だ。これも、Planet Money のポッドキャストで自動車を例として触れられている。1920年代、GM(ジェネラルモーターズ)は、短いスパンで「もっとかっこいい車」を作り出し、それを巧みに心理的に働きかける方法でマーケティングすることで、新しいものをどんどん欲しいと思わせることに成功したのだ。それはほかの自動車メーカーや別の業界にも広がっていった。

Money Planet のポッドキャストでは、Giles Slade の “Made to Break (Technology and Obsolescence in America)” に出てくる言葉を引用する。

The last part of the psychology in psychological obsolescence has to do with something that marketers and advertising writers began doing in the 1920s – selling products based on pride and shame.

心理的陳腐化における、最終的な心理要因は、マーケティングや広告のコピーに関わる人が1920年代に始めたことと関係している – [消費者の] プライドと恥を糧にものを売る手法である。

THE LITTLE WHIM 意訳

先ほども例に出したスマホには、計画的陳腐化だけでなく、心理的陳腐化も潜んでいると言える。毎年のように発表される新しいスマホには、欲しくなる要素が詰まっている。カメラの性能は向上し、画面はどんどん鮮やかになり、健康や仕事効率を管理してくれ、デザインも刷新される。今持っているスマホも少し前に買った時には最新だったのに、もっと新しく画期的な(ように見える)、光り輝くスマホが欲しくなる

ファストファッションをはじめとしたファッション業界もしかりだ。流行のものがたびたび新しく発売され、それを着たくなる。私がパーソンズ時代に授業で観た、”The Story of Stuff” というビデオでは、ファッションの流行がもたらす心理的影響と購買欲がわかりやすく描かれている。

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このビデオは、心理的陳腐化のことを 認知的陳腐化 (perceived obsolescence) としている。どうして(女性向けの)靴のヒールの流行は、毎年のように変わるのか?という例が出てくる。去年流行った細いヒールを、太いヒールがトレンドの今年履いていたらまるでダサいみたいな。ゆえに、いくら自分の靴が気に入っていて、必要な数の靴を所有していても、もっと買いたい気持ちになる。

スマホの例もヒールの例も、どちらもまさに、消費者のプライドと恥に巧みに作用して欲しいという気持ちを掻き立てている。そういった意味では、意識操作をしている供給側、ひいてはシステム全体は罪深い。しかし一方で、これはあくまで心理的なものなので、消費者の意識の持ちようで変えることはできる

心理的陳腐化において
消費者は犠牲者なのか共犯者なのか?
消費者の心理的・認知的状況による

2種類の陳腐化について見てきた。今、そしてこれからのこととしては、サーキュラーエコノミーの考えでは、長持ちし、かつ循環を活用する仕組みの中で、多くの(全ての)人が必要なものを手にすることができることを目指し、少しずつ実現化を進めている。理想論が過ぎると感じる人もいるかもしれないが、これがあるべき姿なのではないか – 少なくとも陳腐化ではなく。

受動的 vs. 能動的

陳腐化を通して消費について考えた際、計画的・心理的どちらであっても、どうも「欲しくなる」「買わされる」といった受動的購買の色が強いように感じる。

新聞・雑誌・テレビ・交通などにおける広告で、人の「欲しい」は掻き立てられてきた。今は、ソーシャルメディアやYouTubeなどで、従来型の広告に加え、PRや提供といった形のマーケティングも溢れている。コンテンツを観ながら、欲しい気持ちが育っていくことがある。それは無意識な場合も多いのでは。

広告やメディア、ソーシャルメディアが、何か一つのプロダクトに関する情報をまとめて伝えてくれる。特にインフルエンサーマーケティングは、その人ならではの目線があった上でのコミュニケーションなので、リアリティや親近感を感じやすい。しかしその一方で、自発的な物欲・購買欲や、自ら調べ考える工程へ重きが置かれなくなってしまっているかもしれない。おそらく、圧倒されるほどに選択肢が溢れているから、なおさら。

いつの間にか、私たちは自分が欲しいものを誰かにおしえてもらうようになったかのようだ。

Clare Press のポッドキャスト Wardrobe Crisis で、Wilson Oryema というイギリス人の詩人・映画監督、(半引退した)モデルであり、環境アクティビストが登場した “Poet Wilson Oryema – What to Do About Consumerism?” のエピソードを聞いていて、考えたことがある。

Ssense マガジンのインタビュー “Wilson Oryema: Anti-Consumerist Margiela Muse” でも答えているが、Wilson は自分自身を「歩く矛盾」と考えている。彼はモデルとして、メゾン・マルジェラのランウェイを歩き、ファッションを大衆に見せる一端を担った。一方で、(大量)消費主義に疑問を投げかける。その2つの間にある距離を短くする役割を作っている。詩を書き、ドキュメンタリー映画を作成し、Regenerative Future という若い世代を中心にした環境再生の団体も立ち上げた。

矛盾?表面的?彼の思うところが知りたくてポッドキャストを聞いていたら、おもしろいことに気づいた。

詩は、誰かが作ったものであり、読者は作品から何かを感じとるために詩に手を伸ばす。Wilson が書く、対象との向き合い方や、私たちが今生きている中で囲まれているものの感じ方についての詩を、人は能動的に受動する。それが私たちの購買行動のあるべき姿であることを、改めて感じたのだ。きっかけは自分の動き、残るのは他の存在の受け。

詩を読むように、ものを買う読みたい詩を選ぶように、欲しいものを選ぶ。

それが、今の消費主義の中では、マーケティングや忙しさからか、忘れかけられているように感じる。ゆえに、必然的に実際には必要のないものも買ってしまうことが増えた。

受動的購買が多い今
消費者は犠牲者なのか共犯者なのか?
無意識的に共犯者になっている

グリーンウォッシング

ここまでは、大量生産・大量消費を軸にした話だった。最後の例は、ある程度問題を認識するようになってから発生する、厄介な現象 – グリーンウォッシングだ。

グリーンウォッシング(greenwashing) とは、環境に優しい取り組みをしているように見せかけて実際にその計画には抜け穴があったり、誤解を招くマーケティングだったりする企業活動のことを言う。

あいたた、と感じる具体例を挙げるのが一番わかりやすいのだけれど、それはできるだけ避けるようにしている(たまに毒が出るけど)。そもそも何をグリーンウォッシングと判断するかは、どう考えてもアウトでしょという明らかに落第点なものもある一方で、サステナビリティや倫理の基準が個人間で違う分差異が生まれるというのも理解しておきたい

なので私は、グリーンウォッシングを具体的に挙げるよりは、理由とともにこのブランドのこの商品・コンセプトなら支持したいな ※ただし最終的な判断は個人にお任せします、というポジティブな例を話すことの方が多い(しかしこれは、先述の受動的購買を促す一端を担うと言える)。

それを踏まえた上で、ここではわかりやすく、どう考えても落第点でしょ的なグリーンウォッシングについて考えたい。

「リサイクル素材で作りました」→プロダクト全体のほんの一部でしかない
「サステナブルコレクションを発表します」→ビジネス全体のほんの一部でしかない
「自然素材をたっぷり配合しました」→自然というだけ、オーガニック比率や全原料の詳細を公開していない
「植林プロジェクトを進めています」→企業運営におけるエコロジカルフットプリントを公開しておらず、オフセットする意志も明記されていない

ざくっと例をあげるとこんな感じ。書かれている文言を見ると、いいことをしているように感じる。でもその言葉が真に意味することは何?プラスαや付け焼き刃なことをしても、本質そのものに問題が山積みであったらあまり意味がない。グリーンウォッシングは、もしかしたら心理的陳腐化と組み合わせられる可能性もある。「新製品はサステナブルです!」と言われたら、必要のないものであっても、サステナブル=クールという考えから買ってしまうかもしれない。それが特に見せかけだけのサステナビリティだった場合、本末転倒だ。

サステナビリティや倫理の問題を認識し始めた消費者は、こういった言葉に踊らされやすい。

(リサイクルではないよりは)リサイクルがいい。
(植林していないよりは)植林しているのがいい。

サステナブル、エシカル、エコ、etc. こういったキーワードの持つ求心力は強くなっている。消費者が意識し始めたとはいえ知識不足なのを見越して、グリーンウォッシングとして、真摯に取り組まず言葉を使って市場価値を高め、消費者を惹き付けているんだから、やっぱりこれは今のマーケティングやシステムが悪いよねぇ。

… とは、私は思わない。先ほどまでの項目では、どちらが悪いとも言えない部分もあると感じていた。ただしグリーンウォッシングは、消費者もアンテナを張り始めたからこそ生まれている現象であり、そのスタート地点に立ったからには、消費者が持つ責任も大きい。学校の委員会などでもイラつきが生まれるよね、不参加ならまだしも、参加するならちゃんとやろう!的な。

私たちは、陳腐化や広告・マーケティングを通して、今まで失敗をしてきた。今やっと、問題の理解が広まり始め、それに関する情報が手に入りやすくなってきているのに、また同じように負の連鎖を作り出してしまっては、取り返しがつかなくなる。

グリーンウォッシングの見極め方は、サステナビリティがトレンド化しているのもあり難しい。忘れないでおきたい最低限のことは、

  • 正しい「なぜ?」が機動力になっていること
  • 本質をしっかりとらえていること
  • 透明性と明瞭さがあること

これをリサイクル素材の例で置き換えると、

  • 「リサイクル素材を使う」ことが目的ではなく「資源の利用を減らす」こととそれがもたらす効果にフォーカスしているか分析すること
  • そもそもその素材・製造方法・量(規模)ではないといけないのか考えること
  • 充分な情報がはっきりとわかりやすい形で明示されているか確認すること

普遍的に点数制でサステナビリティを表せるわけではなくても、消費者個人個人が採点することは可能だ。

グリーンウォッシングが多い今
消費者は犠牲者なのか共犯者なのか?
共犯者になり得る

そもそも罪として
考えるべきなのかどうか

現状の問題を見る上で、犠牲者か共犯者か、罪があることをベースに進めてきたけれど、そもそもこれは罪の話なのか?ということを最後に。

私たちが行ってきたことによって、害は生まれた。地球環境、動物、人に、多くの害をもたらした。それは認めざるを得ない事実だと思う。

しかし、私たちの「これから」を考える際に、加害者を知り正すべき箇所を改める上で問題点を分析するのは重要だが、企業 vs. 政府 vs. 消費者といった言い争いを続けようとは思わない。未来を考えることに時間とエネルギーを費やすべきといった方が正しいか。

私が悪い?あなたが悪い?あの人が悪い?
私の責任?あなたの責任?あの人の責任?
私が変わる?あなたが変わる?あの人が変わる?

この考え方から抜け出して、

私たちみんなでよくしていく

ことに集中する必要があると私は考える。加害者でも犠牲者でも共犯者でもない、明るい未来を作り上げる主導者にみんなでなっていく意識と、それを可能にする体制づくり。

私は研究者でも、経済学者でも、政治家でもない。それでも、私という存在が持ち得る最大限のことをするのは意味がある。みんながそれを続けたら、大きく、スピードのあるムーブメントになり、ひいてはそれが当たり前になる。私たちの日常の一つ一つの小さな選択と行動が、結果的にものすごく速く大きな負をもたらしたのだから、それをプラスに向けたい。

長いのに最後まで読んでくださった方々、ありがとうございます。一緒に何かを感じ、考え、調べ、できることをどんどん進めていく仲間がいると思うと、私は嬉しいです。

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